-過去の本棚-
今週の本棚に戻る

週刊 『クリスチャン新聞』 2008年8月17日号 =9面=掲載
『戦争を知らないあなたへ』
クリスチャン新聞編(いのちのことば社、1,050円税込)

 本書を手にすると、まず明るい青空と波打ち際、そこを軽やかに走り去る若い女性の後ろ姿が目に入る。装丁の帯には「…この美しい海が祖父母たちの激しい戦場だったなんて」とあり、私はすぐに沖縄戦のことを思い浮かべた。沖縄だけでなくグアムやサイパンなど、今観光地として若者に人気のある南の島々は、かつて戦争で若者が無残に死んだ地である。眼をそらせたくなる重い問題に、明るく爽やかに導く装丁は、配慮深い。
 読み進むと、戦争の恐ろしさ苦しさ悲しさに触れ、体験者の心情を思って目頭が熱くなることがたびたびあった。「敗戦の日をティーンエイジャーで迎えた」19人の証言が掲載されているが、戦争中の様々な事柄が具体的に語られていて胸に迫る。沖縄の地上戦、本土の戦火、広島・長崎の原爆、引き揚げ、キリスト教への偏見にさらされた日常、そして特攻隊の問題など。また、当時日本の支配地域内にあった台北、北京、テニアン島などでの戦時・戦争体験も書かれていて興味深い。
 キリスト者として、平和の大切さと戦争反対を訴えるメッセージが強く響いている。加害者責任にも触れ、これからの戦争への危惧も語られている。未来への書でもある。
 筆者が、様々な教派から男女半々であることも良い。多様な人々に書き手を求めることができたことは、出版社の豊かさの表れだろう。牧師が約半数と多いが、教会が取り組む重いテーマの場合は仕方がないだろう。
 一人として同じ人間がいないように、一つとして同じ戦争体験はない。読むたびに、嘆きも悲しみも痛みも新たにされる。「戦争を知らない」若者だけでなく、戦争のことを知っていると思っている人々にも勧めたい。初めて知る事実も少なくないはずだ。
 写真、図示、注、巻末の年表も適切で理解を助けている。引用文献表や個人写真の掲載には、熱意や誠実さが感じられる。続編として、参戦兵士の証言集を望みたい。

(評・鈴木重正=日本基督教団・佐賀教会牧師)


週刊 『クリスチャン新聞』 2008年8月10日号 =5面=掲載
『現代の礼拝スタイル』
ポール・バスデン著(キリスト新聞社、2,625円税込)

 本書は、現代の礼拝スタイルをめぐる現状と諸問題を分析し、実践的な視野から評価しつつ、その多様性を認めながら建徳的に現代的礼拝論を展開しています。礼拝のスタイルが旧新約聖書の時代以来、文化と歴史の中で変化し続けていることに気づかされます。著者は、歴史的教会の礼拝の本質と変化を踏まえながら(第泄煤u問題の所在」)、現代の礼拝スタイルを5つに分類し、それぞれの歴史的源流、礼拝の各要素と順序、長所と短所と課題について手際よく要約し(第部「礼拝のスタイル」)、教会においてどのように取り組んだらよいのかその実際についてまとめています(第。部「これからの課題」)。
 本書は、これらの礼拝スタイルが聖書から直接導き出されたものではなく、時代と文化の要請による歴史的産物であることを思い起こさせてくれます。日本のプロテスタント教会は、総じて「トラディショナル・スタイル」の礼拝に馴染んできたと思われますが、最近では典礼刷新による古代教会の伝統の摂取や、プレイズ・アンド・ワーシップスタイルの普及が見られ、礼拝スタイルの多様化は私たちにも身近な現象となっています。著者は、このような現状を否定的に見るのではなく、礼拝スタイルの相違を「礼拝における分裂的状況のしるしというよりも、むしろ多様性の中の一致を示すしるし」として見ることのほうが、教会の豊かな礼拝文化の創造に寄与するものと述べています。
 本書の価値は、礼拝の現状を適確に分類評価して理解させてくれるだけではなく、現場の教会において礼拝スタイルの諸問題をどのように取り扱ったらよいのか、その実際的方法を示している点にもあるでしょう。特に第。部は、異なる礼拝スタイルに変える場合や、礼拝刷新に取り組もうとする牧師や教会にとって実践における効果的なアドバイスに満ちています。礼拝のスタイルや様式に関する神学的、実践的な分析や評価を詳しく論じる類書がない状況を考えると、本書は礼拝の実践に関する重要な参考文献のひとつです。 
(評・福田真理=長老教会・山の上教会牧師)


週刊 『クリスチャン新聞』 2008年8月3日号 =9面=掲載
『原子爆弾とキリスト教』
栗林輝夫著(日本キリスト教団出版局、998円税込)

 原爆投下を命じたトルーマン米国大統領は、最後まで兵器使用を正当化して亡くなったという。しかし1953年1月、ホワイトハウスを訪ねた朋友チャーチル英国首相が、「私たちが天国の門で使徒ペトロから、『あなた方には原爆投下した責任があると思う』と問われたら、何と申し開きできますか?」と問うた際、大統領の返答記録は残されていない。
 長崎出身の大臣が語った『しょうがない』発言は、被爆地の人々を再び議論の渦に巻き込んだ。そして彼は責任(?)を取り辞任した。近年、日本で注目を浴びる「失敗学」は、同じ過ちを繰り返さないため「責任追及ではなく、原因究明が必要だ」と説く。二度と再び核兵器を使わず、愚かな戦争を繰り返さない…そのために、日米のキリスト者が過去を直視し原因究明する必要性を、本書は明確にする。
 著者は、初めて目にする実に貴重な多くの資料を収集し、開示してくれた。特に原爆投下当初、米国教会諸団体や神学者ニーバーらが国家に対し原爆投下の非合法性と非道徳性について謝罪すべきだと表明した事実。各原爆投下に関する乗組員に祝福の祈りをささげ日本へ送り出した牧師と神父とが戦後、共に悔い改め、平和運動に投じたこと。また、これらの声がその後かき消されてしまったことなど。軍事超大国に根付く“主流派キリスト教”が果たして「キリストや福音」に従っているのか、または合衆国という「国家や政治」に追従しているだけなのかを鋭く問いかける。
 戦後63年、今なお日本人が福音化されない根本的理由は何か? 国民の半数以上がキリスト者と自称する米国が原爆投下を正しく認識せず、歴史的検証を怠っている現状と、またそれを「しょうがない」とし、何も出来ずにいる私たち自身に失望しているからでは? と再考させられた。ぜひ、本書が英訳され、表向きは正義の戦争と容認し続ける米国の兄弟姉妹に語りかけ、“信仰心と魂”を揺さぶることを願う。天国の門前で問われる前に…。

(評・友納靖史=日本バプテスト連盟長崎バプテスト教会牧師)


週刊 『クリスチャン新聞』 2008年7月27日号 =5面=掲載
『ナウエンと読む福音書』
ヘンリ・ナウエン著(あめんどう、2,415円税込)

 「現代のキリスト教スピリチャリティの分野で、最も影響力があり、最も好まれている著作家」(「はじめに」)
 ヘンリ・ナウエンの数ある書の中から、多くの人にぜひとも読んでもらいたい本の日本語訳が出版されたことは、私のようなナウエンファンにとっては、大きな喜びである。
 ナウエンの著作との最初の出会いは1980年代中ごろのこと。神学校での「霊性の形成」という講義の中で、リチャード・J・フォスターやトマス・マートンの著作などと一緒に参考文献として紹介されていた。それ以来、彼の書いたものによって実に多くのことを教えられ、助けられた。
 本書はナウエンを知らない、はじめて読む人にも格好の入門書となるだろう。また、スピリチュアルな事柄に関するさまざまな情報があふれる中で、ナウエンという案内人とともに福音書を通して主イエスと出会い、キリスト者としての霊性を養う旅をすることができるガイドブックにもなる。
 著者に大きな影響を与えたと言われるレンブラントの素描が挿絵として載せられていることも、本書の大きな特徴と言えよう。完成された絵画ではなく素描が用いられていることによって、読む者は想像力を働かせなければならなくなる。目からのイメージに影響を受けやすい現代人にとってチャレンジではあるが、より深く、そして、考えながら読み進めていくために役立つ編集、レイアウトである。
 私たちのために降りていく歩みを続けられる主イエスの姿を、ナウエンは私たちに示す。そして、「イエスと共に降る」ことを選ぶこと、主イエスに従って生きることの喜び、希望を教えてくれる。
 それだけに、本書をじっくり読むこと、例えば、1週間に1章ずつ、1年かけて読むことをおすすめしたい。

(評・永井信義=イエス・キリスト福音の群東北中央教会牧師)


週刊 『クリスチャン新聞』 2008年7月20日号 =9面=掲載
『日本人はなぜキリスト教を避けるのか』
勝本 正實著(いのちのことば社、1,260円税込)

 著者は、さまざまな角度から「日本人がなぜキリスト教を避けるのか」について考察しています。特に「仏教や神道、それに日本の原宗教たる民族宗教」についての深い知識に基づく、鋭い分析に感銘を受けました。「日本人の精神風土」、「人生儀礼」、「年中行事」という3つのテーマのもとに、見開き2頁の66のメッセージが収められており、平易で読みやすい文章です。
 著者は、「日本文化を軽んじるのではなく再発見し、意味を問うこと」を目指しています。そして諸宗教の中にある優れた点を認め、それを接点としつつ、キリスト教の真理を伝えようとしています。
 それだけではなく、「神仏習合」によって、すべてが曖昧にされている宗教の矛盾が描き出されます。仏教は本来の教えから変質し、現世を肯定し、先祖を崇拝するための宗教となってしまっています。そしてその結果、日本では、他宗教への「寛容」と言いながら、その実、「同一性、協調性」を強く求め、独自の生き方をする者たちを排除しようとする宗教風土が生まれています。そこに問題があり、この点こそが、日本人がキリスト教を避けようとする原因であるとの指摘は的確であると思われます。
 このような日本の社会にあって、教会は多くの困難の中でも、「世に生きながら世の流れと違う」こと、すなわち「異質性」を明らかにしていかねばならないと著者は訴えます。教会は世に流されることなく、自我に死に、神の恵みに生かされることが求められているという主張に同感です。
 読み終えて思うことは、日本というさまざまな宗教が複雑に混合した社会において、福音主義に立つ「諸宗教の神学」を構築することの必要性です。すなわち、他宗教を無批判に受容するのではなく、また異教としてすべてを排除するのでもなく、その価値を認めつつ限界を明らかにし、福音宣教のための接点や方策を総合的に考察することが、求められているのではないでしょうか。

(評・岡山英雄=日本福音キリスト教会連合東松山福音教会牧師)


週刊 『クリスチャン新聞』 2008年7月13日号 =5面=掲載
『主よ、あわれみたまえ』
マルティン・ルター著(教文館、1,995円税込)

 ルターにとって、詩編は聖書中の聖書であった。彼は昼も夜も詩編を愛読し、詩編から慰めと導きを受けた。彼は詩編によって祈り、感謝し、賛美した。ルターにとって詩編は「1冊の小さな聖書」であった(詩編序文)。しかしその中でも、詩編51編は特別の意味をもっていた。彼は、1513〜15年の第1回詩編講義と、7つの悔い改めの詩編(1517年、1525年)と1532年の3回にわたってこの詩編を取り上げている。
 それでは、1532年にどうして3回目の「詩編51編講解」がなされたのであろうか。それはこの年、詩編2編と45編が、51編の前後になされたことをおぼえる必要がある。1530年、アウグスブルグ国会の結果、ルーテル教会はローマ・カトリック教会とはっきりと袂を分かち、教会形成と教えの確立が必要であった。そのような状況を背景にして、ルターは特に、詩編2編において「世と敵に打ち勝つ勝利者キリスト」についで、「罪と悔い改め」についての正しい教えが必須であると考えたにちがいない。「7つの悔い改めの詩編」の中での、51編の講解と比較すれば一目瞭然である(ルター著作集、第2集、第4巻)。
 1534年になされた詩編90編の講解についで(『生と死の講話』金子晴男訳、知泉書館)、今回、同一訳者によってワイマール版ラテン語原本からのテキストが翻訳され、微妙なルターの言い回しも日本語で読めるようになっている。ルターは、51編1、2節の序文ではなく、直接3節の「あわれみたまえ」という言葉から講解をはじめる。それは、ダビデが犯した罪をナタンによって叱責された罪の重大性を無視するものではないが、それ以上に罪の本性は底知れず、それだけに、悔い改めもまったく人間のわざ的な要素を排除しなければならないからである。そしてそれこそ、福音的な教会が立ちもし、倒れもする試金石なのである。この徹底した「罪」理解とそれと不可分の「悔い改め」の理解は、時代を超えて今日の教会と信仰者が立つべき基盤である。
(評・鍋谷堯爾=神戸ルーテル神学校教授)


週刊 『クリスチャン新聞』 2008年7月6日号 =7面=掲載
『モラル教育の再構築を目指して』
青山学院大学総合研究所キリスト教文化研究部編(教文館、1,680円税込)

 本書は青山学院大学総合研究所キリスト教文化研究部が2004年から2007年に行った研究プロジェクト「青年期におけるモラル教育の危機と可能性―キリスト教モラル教育の構築へ」の研究成果報告である。序文の「人間形成におけるモラル教育の重要性は、家庭、学校、共同社会など、人間が成長を遂げるあらゆる場で把握されるべきであるが、今日は親のモラル、教師のモラル、企業のモラル、政治モラルの脆弱さが指摘され、モラル教育の主体が見出せない状況が起こっている」という危機感が根底にある。
 全体は3部に分かれ、第1部は「モラルの再生へ」と題する関根清三の講演。殺人を否定する根拠として聖書的には「創造論的な答え」とさらには「救済論的な答え」としての「目に見えない愛の磁力」を説く。第2部は「現状と課題」で「キリスト教学校教育における『いのちの教育』の可能性」(小池茂子)、「キリスト教教育プログラムとしてのサービス・ラーニング」(伊藤悟)、「ルドルフ・シュタイナーの道徳教育論(今井重孝)、「韓国における中・高等学校道徳科教育の性格と内容」(安抖善)。伊藤はサービス・ラーニングを「奉仕活動やボランテイア活動のもつ社会的役割や教育力を活用して、学生が大学で学んだ成果を地域社会の諸問題の解決のために役立て、そのことを通して大学で学ぶことの意味を再確認し、学問の検証と社会還元との相互的実践型教育のかたちである」と説明している。
 第3部は「史的・体系的考察」で「古代ギリシャにおける徳育のアポリア」(三島輝夫)、「宗教的青年組織における道徳的人間形成」(大森秀子)、「物語の神学と礼拝における人間形成」(東方敬信)、「宗教・道徳の教育と神学的省察」(朴憲郁)、「宗教的市民性教育による異なるものとの再生」(ロバート・ジャクソン)が収められている。
 キリスト教の立場からモラル教育を考える際には、ぜひ、目を通して欲しい良書である。

(評・稲垣久和=東京基督教大学教授)


週刊 『クリスチャン新聞』 2008年6月29日号 =5面=掲載
『礼拝の1時間』ナンシー・ビーチ著(福音社、2,625円税込)

 アートミニストリーについて書かれてあるこの本は、著者の長年の奉仕経験の中から、その意味と必要性、そして起こってくる具体的な問題を真摯に扱ってくれている。それは、大きな教会に限らず、どんな教会にも適用できるものだ。
 著者の働きの根底には深い信仰があり、「この世からアートを奪回する」という熱い思いが伝わってくる。かつて、音楽にしても美術にしても、教会が先頭を切ってきた。それが現代、この世に奪われ、教会は置き去りにされ、忘れられているかのようにさえ思える。
 教会は、アートを福音の武器にしていく必要があるだろう。伝統を守ることが大切なのではなく、そこに流れているいのちを伝えていくことが大切であり、アートミニストリーはますます重要となっていくだろう。
 もちろん、礼拝の中心はみことばであり、それがしっかりと語られていればいい。しかし、それは語る側の論理であり、みことばを通して、その人の人生が変革されていくことこそが大切なのではないだろうか。みことばの力が最大限に引き出されるためにも、アートミニストリーはその鍵となるだろう。
 著者の、「礼拝をつくる」という表現に心が留まる。礼拝は、つくられなければならないものでもある。牧師がみことばの準備のために最大限の時間を用いるよう、その他のプログラムにおいても十分な時間をかけ、アートにしていくのは当然なことではないだろうか。礼拝のすべてが神にささげられているのだから。
 ウイロークリーク・コミュニティー・チャーチは、ビル・ハイベルズ氏だけではなく、著者を含め、素晴らしいリーダーたちによってここまで来た。
 この11月、そのグローバル・リーダーシップ・サミットが東京で開かれる。サミットを通して、日本の教会の礼拝が、祝福されていくよう祈って止まない。

(評・小野寺従道=基督兄弟団横浜教会牧師)


週刊 『クリスチャン新聞』 2008年6月22日号 =9面=掲載
『自由と家族の法的基礎』
ジョン・ウィッテ著(聖学院大学出版会、3,360円税込)


 この度、エモリー大学法学部ジョン・ウィッテ教授による本書が出版された。私は、同教授の正確な歴史解釈とキリスト教信仰の本質理解に大変感銘を受けた。21世紀に入った健全なポスト・リベラルな知的作業を知ることができたからである。ポスト・リベラルの作業とは、近代社会を分析するのにキリスト教信仰の伝統と啓蒙主義運動を明瞭に区別することである。
 ウィッテ教授は、第1章「キリスト教とデモクラシー」で、キリスト教とデモクラシーは「互いに補完しあう」ものと把握し、キリスト教は「デモクラシーの偶像を追い払い、デモクラシーが常に自己浄化し自己改革していくことができるように」働きかけねばならないと主張する。キリストを主として仰ぐ者は、人間のつくった制度であるデモクラシーに対して黙っていられないからである。この視点から、「教会と国家の分離」を歴史的に見事に分析する。また4章「『教会と国家の分離』の歴史―その虚実」では、カイザルと神を分離との関係において捉えようとした西方カトリック教会の伝統、さらに初期プロテスタントの見解と初期啓蒙主義の見解、これらを踏まえてアメリカの教会と国家の分離の実験を分析する。
 さて、ウィッテ教授のキーワードは「コントラクト」という契約と「カヴェナント」という契約の区別だが、後半の結婚制度の意味深い歴史的変遷の分析にはそれが豊かに用いられる。近代社会の結婚制度は、サクラメントからコントラクトへの流れでまさに啓蒙主義の「コントラクト・モデル」に結実し、当事者間の自発的協定という経済モデルに近い結婚観になる。しかし、現在の「結婚と家庭の危機に瀕して」いる現状に、97年にルイジアナ州は当事者が教会を含む専門の結婚カウンセラーの指導を受けるカヴェナント婚姻法を別の選択肢として採用。これは、アリゾナ州とアーカンソー州にも広がっている。このコントラクト以上の結婚観は、まさにポスト・リベラルの社会倫理であろう。
(評・東方敬信=青山学院大学総合文化政策学部教授、大学宗教主任)



週刊 『クリスチャン新聞』 2008年6月15日号 =5面=掲載
『祭壇の火は燃え続けさせよ〜レビ記に見る神の聖さ〜』
遠藤嘉信著(いのちのことば社、1,470円税込)

 数年前、日本旧約学会からの帰り道、電車が幾つかの駅を走るつかの間、聖書神学舎教師の遠藤嘉信先生とご一緒する機会がありました。着飾らない口調で静かに「旧約問答」をしたことを思い出します。昨年いただいた年賀状には、「病気治療のために病院の近くに引っ越すことになりました」と書かれてあり、心配していたところへ、6月23日に召天という知らせが届きました。まことに残念な知らせでした。
 さて本書はレビ記からの講解説教の一部として、病床にありながら奥様の芳子先生との共同作業で説教9編が選ばれ、編集、出版されたもので、レビ記の中心テーマ「神の聖さ」に焦点が当てられています。著者は、すでに何冊も講解説教を出版しておられるゆえに、愛読者も多いことと察せられます。この度の出版も手堅く、かつ真剣な遠藤先生の肉声が聞こえてくるような内容となっています。ことに講壇からレビ記の講解説教は、あまり耳にしたことのない方々も多いことでしょうから、きっと役立つに違いありません。
 なお、欲を言えば切りがありませんが、レビ記自体の全体構造は、第16章の「大贖罪の日の規定」を頂点として、前半部の第1章から第15章には「罪の赦しと汚れの清めを指図するテキスト」が置かれており、後半部の第17章から第27章には「罪を赦され、汚れを清められた信仰者の新しい歩みを導く諭し」が置かれているという構成がなされていることを指摘しておいていただければ、より意義深い講解説教記録となったものと考えております。とはいえ、本書はそのままで十分に味わい深く編集されていると思います。
 本書のみならず著者遠藤嘉信先生の遺稿となった何冊かの説教を、ぜひとも手にとって読んでいただきたいとの願いを込めて、評者の任を果たし終えたいと思います。なお、恵泉社からは同著者によるMP3対応CD版『肉声説教集(ヨハネ福音書)』も出されていることを付言しておきます。

(評・石黒則年=大阪キリスト教短期大学教授、日本フリーメソジスト教団教職長老)


週刊 『クリスチャン新聞』 2008年6月8日号 =9面=掲載
『エレミヤ書講話』北森嘉蔵著(教文館、2,100円税込)

 永年にわたり東京神学大学で教鞭を執り、「神の痛みの神学」を世に問うた故・北森嘉蔵氏は、難解な神学論を一般の人にも分かりやすく説く人物として知られている。本書は1980年代に東京・新宿の「朝日カルチャーセンター」で行われた聖書講解のテープを起こして整理したものである。
 日本における最も独創的な神学として知られる「神の痛みの神学」とは、旧約聖書エレミヤ書31章20節に出てくる「わがはらわた彼のために痛む…」(文語訳)を主題に生み出されたと言われているが、その源流となったエレミヤ書を分かりやすく解説し、神の愛の本質に迫っている。
 エレミヤ書と言えば、紀元前7世紀、南ユダ王国に生きた「涙の預言者」エレミヤが、40年にわたってイスラエルに対する神の怒りを宣言した慟哭の書として理解していた評者にとって、「神の痛みの神学」に表された「人間への怒りと愛を貫こうと苦しむ神」に出会うことは少なからず驚きであった。
 それはエレミヤ書31章20節に秘められた神の愛の奥義に目が開かれる体験でもあった。「ハーマー」というヘブライ語がT痛みUと訳されると同時に、T愛Uと訳されうること自体が秘儀であると著者は語っている。
 「神の怒りと神の愛とが結びつくところに神の痛みが生まれるということでありまして、これはまさに、十字架の内容とマッチすると思うのです。新約聖書においてはキリストの十字架、これがキリスト教の中心ですが、この十字架を旧約聖書に表現すると神の痛みということになるとわたしは解釈して今日に至っているわけでございます…」
 日頃、聖書に親しんでいない人々にも、何とか分かってもらいたいと、かみくだきながらエレミヤ書の深みを語る北森嘉蔵氏の姿が彷彿とする場面である。
 入信まもない頃、評者が実際に聞いたその肉声を懐かしく思い出しながら、本書を読了することができた。

(評・守部喜雅=「百万人の福音」顧問)

週刊 『クリスチャン新聞』 2008年6月1日号 =5面=掲載
『アメリカにおける神の国』
H・リチャード・ニーバー著(聖学院大学出版会、3,150円税込)


 本書は現代アメリカの神学的状況を理解するためのもっとも良い案内書である。本書の著者H・リチャード・ニーバーは、兄ラインホルト・ニーバーと共にアメリカの神学界を指導した神学者である。リチャード・ニーバーは神学者の神学的教師として尊敬された神学者である。
 本書は、神学的キーワードである「神の国」の視点からアメリカの神学的状況を解明しようとしている点で重要である。アメリカはペンテコステ革命の歴史としての人類の救済史の中で神の国の担い手たりえるか、ということを考えさせてくれる著書である。
 かつてディートリッヒ・ボンヘッファーがアメリカのプロテスタンティズムを「宗教改革なきプロテスタンティズム」と呼んだが、ニーバーは1517年ヴィッテンベルグ城壁から開始された宗教改革の革命的嵐が、アメリカでカルヴィニズム神学を中心に統合されていった過程を解明してくれている。
 アメリカではルター神学が中心でなく、ウェスレアン・ムーブメントも神学的にはカルヴァン的になっていったということがよく理解できる。それゆえに「神の国」というコンセプトがアメリカに定着しえたことも理解できる。
 そうなると神の国と帝国主義の関係解明が神学的にもっとも重要な課題になる。アメリカの神学は「神」の国と神の「国」の違いを解明しえているのかという問題である。
 イエスと律法学者たちの最大の対立点は神の国の理解を巡ってであった。イエスは「神」の国に焦点を合わせ、律法学者たちは神の「国」に焦点を合わせた。ローマ帝国の植民地支配からの解放に焦点をあてるか、ローマ帝国をも神の国に包摂するかということであった。アメリカが帝国主義であるか否かの判断を9・11戦争が教えているか、この判断を本書は与えてくれない。

(評・東條隆進=キリスト兄弟団・弥生台キリスト教会牧師)

週刊 『クリスチャン新聞』 2008年5月25日号 =9面=掲載
『天国と極楽』
岡山 英雄著(いのちのことば社、1,365円税込)


 私は著者の岡山英雄先生を存じ上げていますが、その温厚で誠実な人柄は本書にも表れており、その求道時代から魂の遍歴を経て得た確信を、みことばに基づいて誠実に描き出しています。本書は、キリスト教の天国と仏教の極楽との対比の形をとりながら、天国の素晴らしさを力強く浮かび上がらせています。天国籍を与えられている者の一人として、私自身深い感動を覚えながら読み進めました。本書を読むと、仏教の中の「浄土教」の極楽とキリスト教の天国との類似点と相違点が一目瞭然となります。創造主の啓示によらず、いわば人間の知恵によって到達した「極楽」の概念に驚きを覚えると共に、その限界も本書において明瞭にされます 。
 余談になりますが、私は皇學館大學神道研究所において神道の研究を行う機会に恵まれました。そこで学んで分かったことは、神道はきわめて現世中心主義で、死後の世界や死者の霊魂の行方については曖昧で統一が無く、結局死後いずこへ行くかは個人の信仰に任せるほか無いのが現状であるということです。こう考えると、神道の他界(幽冥界)や、仏教(浄土教)の極楽に対比させながら、天国を証することは、日本宣教の可能性を開いてゆくものとなるでしょう。また、本来自力救済であった原始仏教が、大乗仏教、浄土教、そして日本の法然、親鸞に至ってパウロの信仰義認に匹敵するまで深められていったことにも、日本宣教の可能性を大いに見ることができるでしょう。
 本書は教会にとって、また御国への道を歩む者にとって、励ましと慰めの書であり、また世俗化への警告の書でもあります。それと共に、本書は仏教の背景の中にある人々への格好の伝道の書と言えるでしょう。本書を通して、私たちの愛する家族や友人知人が、天国に入るきっかけとなるなら、なんと素晴らしいことでしょうか。未信者の方々へのプレゼントとしても、ぜひお勧めします。

(評・高桑照雄=創愛キリスト教会牧師 いのちありがとうの会・エターナルライフプロジェクト事務局主任)

週刊 『クリスチャン新聞』 2008年5月11日号 =5面=掲載
『カルバリー・チャペルの特徴』チャック・スミス著
(カルバリー・チャペル・ジャパン・パブリッシング、1,050円税込)


 評者は90年代、米国カルバリー・チャペルの流れを汲む教会に5年ほどお世話になったことがある。そこで私は教会の牧師からカルバリー・チャペルの原則、スタイルについて聞いた。牧師が熱く語る、ヒッピーたちに愛をもって仕え福音を伝えるチャック・スミス牧師の姿に私は本当に感銘を受けた。
 だが、日本では今日までカルバリー・チャペルのことがなかなか理解されてこなかったようだ。理由の一つがバランスだろう。カルバリー・チャペルは聖霊の賜物、働きを強調する。と同時に、講解説教で聖書全巻をくまなく教えることを説く。また、終末論は期前携挙説をとる。聖霊派からは「保守的」、福音派からは「カリスマ的、ディスペンセーション的」と言われるだ。だが、このバランスこそ、全米、全世界に驚異的な勢いで広がった要因でもあろう。
 一読してみて、著者の否定的発言に注目すると興味深い。一つは「数的教会成長論」だ。「数を加えるのは主の仕事。あなたの仕事は群れを養い、世話をして愛すること」と言う。人々を神の言葉に向け、関心を祈りに向け、聖餐式に参加するよう促せば、「主が毎日救われる人々を加えてくださる」(使徒2・47)と。「健康な羊は健康な子羊を産む」は至言だ。一方で、「人の頭数を数える罠にはまらないように。ただそこにいる人々に目を留めよう」と注意を促す。あまりに統計を重視する傾向にある日本のキリスト教界にあって、考えさせられるひと言だ。
 また、第10章には「愛がなければすべての正統派の教義や聖書の理解は価値がない」とある。つまり、「正しい答え」よりも「正しい(愛の)態度」が優先される、という。各教会にはそれぞれ独特の教理、伝統、神学があるだろう。だが、カルバリー・チャペルはその前に「あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13・34)を置く。ここに日本の教会が学ぶべき原則があるのではないだろうか。



週刊 『クリスチャン新聞』 2008年5月4日号 =9面=掲載
『ヘンリー・ナーウェン』
酒井陽介著(ドン・ボスコ社、1,050円税込)

 手のひらに軽く心地よくおさまる本書を一気に読みました。本文120頁ほどの小著ですが、ナーウェンの全体像が、彼が生まれて生きた時代や、その著作が生み出された背景をしっかり見つめながら、とても親密で温かな心で的確に描かれています。ナーウェンに対する深い愛情とその著作への確かな把握力がなければ、このような本は書けないと思います。
 著者は、ナーウェンの霊性をその人生の変遷を通して紹介しています。まず序章で現代という時代におけるナーウェンの魅力を語った後、第1章でナーウェンの円熟期の90年代に至るまでの北アメリカにおける霊性の歴史的変遷について書きます。第2章ではナーウェンの著作を通して見える彼の霊性について述べ、第3章ではナーウェンのテーマをその核心にある言葉によってまとめています。さらに第4章ではナーウェンの思想を霊性神学の立場から特に終末思想との関連で考察し、最後に第5章でそれまでの全体をまとめて「傷ついた癒し人」としてのナーウェンのメッセージを伝えます。
 著者は、ナーウェンは読者にメッセージを無理強いせず、「読者は自分の人生のストーリーの中で彼のメッセージを読み解くことができる」と書いています。本書の著者は自らがナーウェンと同じカトリック司祭であることによって、ナーウェンの著作や霊性を簡潔に的確に読み解いています。それは本書がカトリック臭が強いとか、著者独自の観点によるといった意味ではなく(そういう声高な意識は不思議なほどにまったく感じられません)、ナーウェンといういのちの存在に、深い愛情と共感をもって、著者自身の心身のおもりといのちの根を下ろしているということです。
 評者は、またナーウェンを読み直したくなりました。本書は、ナーウェンの読書に慎み深く寄り添う格好の伴侶です。著者に感謝します。

(評・後藤敏夫=日本福音キリスト教会連合キリスト教朝顔教会牧師)


週刊 『クリスチャン新聞』 2008年4月27日号 =5面=掲載
『<聖書流>生き方指南』
中川 健一著(アイシーメディック、1,300円税込)

 本書は万人に通じる実益の書であり、勇気と力を与えてくれる良書である。著者は聖書の4000年の知恵から「人生の戦略」を掘り下げて20の法則に分類し、サバイバル・マニュアルを書いている。法則1「甘柿と渋柿」の法則から始まり、法則20「黄金率」でまとめられ、その内容は豊富で時間の経過を忘れさせるほど軽快に読める。
 私は本書の特徴として、次の3点を挙げることができると思う。
 先ず、生きるための「重要な人生戦略」が、聖書をベースに明快に展開説明されていることである。その内容は実例に根ざしており、実に実践的で生活に適用できる材料があちこちにある。
 第2に、20の人生法則はすべて平易な文章で書かれ、大変読みやすく理解しやすい文体であることだ。従って若者から年配者まで性別を問わず、読者に十分納得させる内容である。
 第3に、各法則ごとに重要なポイントが要約されている点である。各章ごとに、人生の法則をわずか3点に集約した最高のエキスとも言えよう。
 特に感銘を受け印象的なのは、次の3つの法則である。
 @法則2(名優)。心理学でいう「メタ認知力」(自己を客観的に評価する能力)は、自分を含め多くの人々に問われる課題である。著者は「メタ認知力」を意図的に伸ばす人は、戦略的な人生を生きている人と解説している点である。
 A法則13(自己受容の法則)。著者はその症状から始まり、なぜ自己受容が困難かその原因にまで根を掘り下げ、読者に納得を与えてくれる。
 B法則15(ライト・ナウ)。「ライト・ナウの精神」とは、「弁解はいいから、すぐに行動せよ」ということである。問題解決を先延ばしにするのでなく、今行動することが重要であることを説いている。
 そして何よりも魅力的なポイントは、どうすれば20の法則を実践する人になれるかを説いている点である。信仰の有無にかかわらず、一読に値する良書なので、ぜひお勧めする次第である。
(評・黒田禎一郎=「ミッション・宣教の声」主幹)


週刊 『クリスチャン新聞』 2008年4月20日号 =8面=掲載
『アジア・エキュメニカル運動史』
山本俊正著(新教出版社、1,680円税込)

 アジアのエキュメニカル運動について書かれた書物や資料が少ない中で、本書の出版はアジアのエキュメニカル運動の歴史を理解するための貴重な入門書だと言える。
 本書の主要な構成は、昨年創立50周年を迎えたアジアキリスト教協議会(CCA)を中心に、その創立前史から始めて創立50年に至る今日までの歴史の流れを追いながら、その時々にCCAが置かれた歴史的背景や課題を取り上げ記述している。欧米の宣教師を通してなされた、日本を含めたアジアの国々へのキリスト教伝道においては、アジアの教会の主体性はなかったが、著者は、1957年インドネシアのプラパトで教派を超えてアジアの教会が一堂に会して開催された東アジアキリスト教協議会(EACC,後にCCAと改称)の設立が、戦後のアジアの国々におけるナショナリズムの高揚や独立運動の流れの中で、アジアの教会の主体性を示す出来事であったと捉えている。
 本書の中で指摘されているように、EACC設立当初は、アジアにおける伝道と宣教における教会間の協力が中心であったが、その後アジアの教会は、アジアの視点に立ったキリスト教理解を大切にして、その時代の中でアジアの教会が直面する貧困、人権抑圧、平和、開発、環境破壊、諸宗教対話などの共通の課題に向き合いながら、それらの課題を教会の宣教課題として取り組んできた。
 今日アジアのエキュメニカル運動は、日本のNCCなどが加盟するCCAだけでなく、日本福音同盟(JEA)が加盟するアジア福音同盟(EFA)やカトリック教会ではアジア司教協議会連盟(FABC)などがある。本書は今日の日本の教会が、アジアの教会の一員としての自覚をもってアジアの教会とのかかわりの中で歩む必要を示唆している。アジアのエキュメニカル運動の流れの中で日本の教会のあり方を考えるためにも、またアジアのエキュメニカル運動の流れを理解するためにも、ぜひ一読を勧めたい本である。
(評・大津健一=前日本クリスチャンアカデミー関東活動センター所長)


週刊 『クリスチャン新聞』 2008年4月13日号 =5面=掲載
『祈り』
 フィリップ・ヤンシー著(いのちのことば社、2,310円税込)

 聞かれない祈りがなぜあるのか──誰もが戸惑いをもちながら、腫れ物にでも触るように、古傷が痛まないように、そっとをする。どうしたら祈りが聞かれるか、祈りの力、聞かれた祈りの証言はあっても、聞かれなかった祈りについて語る者は少ない。神の信頼や威光を傷つけるように感じるからであろうか。聞かれないのは、私たちの祈りが足りないか、祈り方が間違っているか、信仰が欠けているからだろうか。
 ヤンシーは、『神に失望したとき』を著した時から一貫して、人が触れたがらない疑問の蓋を開けていく。それは、単なるジャーナリスト精神のなせる業ではない。彼はインタビューに答えて、その原点に、幼少に父を亡くした経験──「祈れば治る」と信じて医療を遠ざけた結果の死──があったことを語っている。以来、大きな疑問をいつも抱いて神の御前に生きてきたと言う。「聞かれない祈り」との格闘こそが、彼を類いな探求者に、絶えず傷む者に目を注ぐ作家に育てあげたのかもしれない。
 この探求者は、なぜ祈るのか、祈りは神を変えるのか──数々の疑問を丁寧に拾い上げる。読者を一人として置き去りにすまいと決めたかのように。そして、後半で一気に「聞かれない祈り」の核心に引き入れる。聞かれるか聞かれないかという、人間の硬直した視点から、聞かれない祈りの持つ祝福、さらに聞かれない祈りに立ち向かう姿勢へと私たちを導く。同伴者として、膨大な資料から選りすぐられた、古今東西の信仰者のことばが、また、著者のもとに届いた千通にもおよぶ手紙、友人知人の祈りの経験が、読者一人ひとりの思いや経験を代弁してくれる。訳者の繊細な言葉によって、心の奥深くにいつまでも残るに違いない。
 本書を通して、神ご自身が根気よく語りかけてくださっている。──聞かれない祈りに傷つき、祈りを気の乗らない宿題のように持て余すことはない。祈りは、わたしと語り合う「特権」なのだから──と。

(評・吉川直美=シオンの群教会牧会協力者)


週刊 『クリスチャン新聞』 2008年3月30日号 =5面=掲載
『旧約聖書から福音を語る』
 D・M・ロイドジョーンズ著(いのちのことば社、2,310円税込)

 「あのロイドジョンズが」「旧約聖書から語った」「伝道説教集21篇」という、話題性十分の訳書が刊行された。旧約のどんな個所だろうと頁を繰れば、アダムとエバの堕落(創世記3章)やヤコブのペヌエル体験(同32章)、燃える柴(出エジプト記3章)、ナアマン将軍のいやし(列王記5章)などお馴染みの個所は少数で、「ここからどうやって伝道説教を?」との意外な(?)個所が次々に登場し、読者は旧約聖書理解の少なさ浅さに恥じ入ることとなる。
 本書の比類なき価値は、昔も今も変わらぬ人間の罪、その分析の鋭さと徹底性にある。伝道説教だから至極当然と言えばそれまでだが、今日どれだけの説教がここまで緻密に人間の罪性を掘り下げ、聴衆を悔い改めと信仰へと駆り立て、「十字架の他に救いなし」と言い切っているか、対する聴衆もどれだけ罪を深刻に受け止めているか自省するとき、伝道者も信徒も目を覚まされるであろう。
 著者の論法は全く反論の余地を残さず追い詰めていく独特のもので、罪を暴露する深刻な内容に小気味よさを覚えるほど明快である。そこには「福音そのものは真の福音的な説教において必ずしも主題となる必要はない、むしろ福音がなぜ必要なのかを人が納得できるように導く真理のほうが主題となりうる」(34頁)という確信が例証されている。これは、著者が聖書全巻における旧約聖書の役割(「神ご自身が救い主としておいでくださるのでなければ救えないような状況に人間が陥っていることをじっくりと詳しく記すため」22頁)を的確にとらえているからであろう。もちろん、各説教を十字架の福音への招きできっちり締めくくっているのは言うまでもない。
 訳語は、日本人説教者の肉声かと思わせるほどなめらかで躍動感があり、本書の価値を高めている。「何よりもまず、次世代を担う若い伝道者たちに本書を」と願う訳者のあとがき(491頁)に若き日、著者の説教集『山上の説教(上)(下)』を大学通学の電車内で読みふけった自分が重なった。
(評・関野祐二=聖契神学校校長)


週刊 『クリスチャン新聞』 2008年3月23日号 =13面=掲載
『牧会者ルター』
 石田順朗著(日本キリスト教団出版局、2,940円税込)

 『牧会者ルター』は、魂の配慮者としてのルターに焦点を合わせた独自な著作である。本書は、1976年、旧聖文舎出版のものの復刊である。牧会へのルターの深い示唆を網羅したこの著の復刊は意義深い。
 本書の構成は、10章だてで、第1章から順次、「牧会者ルター」、「ルターをとりまいた牧会状況」、「ルターの牧会の枠組」、「ルターの牧会を支えた神の言葉」、「牧会の場としての教会」、「牧会のつとめ」、「牧会の会話」、「『神のかえりみ』表出としての牧会の言葉」、「牧会の終末論的視野」、そして「現代牧会論へのルターの発言」と続く。牧会者としてのルターの神学と実践への網羅的なアプローチとともに、彼以前の牧会の歴史の概観また近代的関心の時代的背景などを含み、格好の牧会学入門でもある。
 ルターは机上の神学者ではなく、牧会者としても神学をいとなんだ人である。したがって牧会者ルターを論じることは、すぐさま彼の神学、そして倫理を論じることにもなる。そして本書はまさに、ルター的信仰、ルター神学の入門書としても位置づけられよう(「律法と福音」、「二王国論」!)。また文脈に重視しながらルター自身に多く語らせていることも本書の特徴となっている。
 著者は、ルター的牧会論の核心は、終末を前にしたこの世の現実における「神のかえりみ表出」であり、それの「現実性、臨場性、具体性」であると指摘しているが、本書のねらいもそれの詳細な展開にある。
 最終章の「現代牧会論へのルターの発言」で、神学と心理学の関係をめぐりトゥルナイゼン、ティーリッヒおよびバルトとの対話がなされている。この関係について、とくにバルトの「信仰の類比」に対して、ルター的十字架の神学の反映とされる北森嘉蔵氏の「痛みの類比」こそ根源的に両者の統合を可能にすると論じられている。ただ具体的にどう統合されるのか、評者は寡聞にしてその展開の相には不案内である。今後の学びとしたい。
 (評・橋本昭夫=神戸ルーテル神学校校長)


週刊 『クリスチャン新聞』 2008年3月9日号 =5面=掲載
『われらを誘惑にあわせないでください』
 池永明倫著(いのちのことば社、1,260円税込)

 ここに収められている内容は、40年間にわたる牧会の現場で語られてきた旧約聖書17か所、新約聖書20か所の「説教」と「聖書研究」との集大成である。
 円熟期を迎えられている著者が、万感の思いをこめて世に著したものであるとすれば、それだけに畏敬の念をもって拝読せざるをえない思いがいたした。
 一読して気付いたことは、説教全体が「神の主権」に重きが置かれ、聖書に啓示されている神の救いの御計画全体が俯瞰的にとらえられていることである。
 それはさらに、人間の救いの始点・支点は、人間の側にはなく、神の側で用意された「先ず」、「すでに」、「あらかじめ」にあることを、随所に強調しておられることからもうかがえる。
 「信仰とは、確かに、私どもの側が神に向って決断することである」―と断わりつつも、「しかし、あくまでも神がイエス・キリストにおいて人間の考えの及ばないご計画をもって私どもを召し、求めておられる」(126頁)―その先行的神の恵みの故に、救いの事実があり、信仰が成り立つ確かさを、再三にわたり強調されておられる。
 自らのことを言えば、40年間、礼拝で「ハイデルベルグ信仰問答」を用い、告白を大切にする教会形成に努めてきたものの一人である。そこには、日頃、信仰問答によって養われてきたものが自覚する告白の言葉の数々が、随所に見られ、著者と共に肯きを共有できたことは喜びもあった。
 言葉の乱れた現代社会に向かって、神の言葉を語る務めは、いよいよ困難と直面している。「恵み」と「愛」とに満ちたの神の言葉を、「父」と「子」と「聖霊」の三位の関係をごちゃまぜにすることなく誠実に取り次ぐこと、しかもそれをアブストラクト的ではなく、テクストに沿って忠実に語ることは至難の務めと思わされた次第である。
 (評・結城晋次=日本同盟基督教団福岡めぐみ教会協力牧師)


週刊 『クリスチャン新聞』 2008年3月2日号 =9面=掲載
『中間時代のユダヤ世界』
 J・ジュリアス・スコット著(いのちのことば社、3,990円税込)

 聖書学の碩学、J・スコットの待望の邦訳である。ホイートンカレッジが標榜する「キリスト者の教養教育」において、彼の講座が大きな土台を担っていたことは知られるところだ。
 中間時代とは、旧新約聖書の間に横たわる400年間を指す。この時代の書で正典に含まれるものはなく、ゆえに啓示のない「空白時代」とされている。ただ、歴史的には決してそうではなく、むしろ世界史的に大変動の時代であった。聖書言語もヘブル語からギリシャ語となり、パリサイ人や会堂などの新しい制度が現れる。私たちは聖書を信頼しそのまま読むことを大切にするが、他方、このような変化の背景に対してまで「そのまま、空白」であることが多いものだ。
 本書は、それらの背景を丁寧に、かつしっかりとした聖書観に立ちつつ説き起こしていく。原題「新約聖書のユダヤ教的背景」のとおり、キリスト到来の時代と舞台が明らかにされる。第1部で背景としての地理や旧約史、中間時代の歴史概観、第2部ではバビロン捕囚とヘレニズムと対峙する中で展開した聖書解釈、会堂、神殿祭儀、口伝律法、第3部ではユダヤ教の終末観、メシヤ観など、神学の展開が示される。
 変動の時代であるだけに、世には「ヘレニズムとの接触が新約神学に影響を与えた」と見る著作が多いのが実情だ。いずれも福音主義神学からは距離のある視点である。その中で本書が果たす役割は大きく、ようやく本格的な書の刊行がなったとの印象をもつ。ユダヤ文献、各種資料の詳細な「原注」は特筆すべき点である。牧師や神学の徒に必携の書と思う。また、イエスの時代に関心をもつ人が読んで納得を得られる一書であると信じる。イエスの贖罪が、人々の「メシヤへの希望の輪郭の内側にあった」こと(322頁)に、成就としてのイエスを感じる。さらにイエスにおいて「霊的な、関係的な事柄が中心であった」の言葉(362頁)に、今日の私にさえ注がれる神の関心を感じることになる。
(評・菊池実=日本同盟基督教団上大岡聖書教会牧師)


週刊 『クリスチャン新聞』 2008年2月24日号 =5面=掲載
『聖書が語るビジネスの法則』
 前原利夫著(いのちのことば社、2,100円税込)

 今まで、クリスチャンのビジネスマンや大学生から、次の様な質問をよく受けた。(1)利益(富)を追及するビジネスと信仰とが二律背反となり困っている。(2)クリスチャンと言えば仲間外れにされないかと心配で、隠れクリスチャンになっている。(3)仕事は仕事、信仰は信仰と割り切らないと会社生活はできない。(4)ビジネスで困った時、ビジネス経験がない牧師には理解してもらえないので相談できない。(5)クリスチャンはある程度、この世と妥協しないと生きていけない様だ。社会に出ることが不安である(大学生)。
 この本はそんな悩みを解決し、信仰に立って生きる勇気と希望と力とを与えてくれる。「事業、ビジネスは単なる生活の手段ではない。ビジネスには勤労や倫理がかかわっており、事業の成功は神の祝福によるものであるが、同時に人間に与えられた特別の使命でもある」と述べ、ビジネスの意義をも示している。
 著者は、大学でマーケティングを専攻し、今はコンサルタント会社を経営し、一方では牧師として教会を建て牧会もされている。この経験があるから聖書も深く理解され、厳しいビジネスも理解されて、このようなビジネスパーソンの心に響く本ができたのだと思う。この本は、ビジネスの視点から聖書に取り組み、現代社会の人々の生き方を示されたものとして非常に意義がある。特に、旧約聖書に出てくる7人のリーダーの話を取り上げ、その中に現代経営のモデルがあるのには驚きだった。また、ヨブ記とビジネス倫理7原則はそのまま現代に通じる。例えば「ヨブは事業家である前に、神の前に立つ1人の信仰者である。彼にとっては、神を畏れ、頼ることがビジネスに先行し、信仰がビジネスを引っ張って進む」と。そこには信仰とビジネスの在り方、ビジネスに取り組むビジネスパーソンの生き方がはっきりと示されている。そのほかにも、厳しい現代社会における生き方を、聖書の中からたくさん学ばせてもらえるすばらしい本である。
(評・三谷康人=元カネボウ薬品株式会社代表取締役社長)


週刊 『クリスチャン新聞』 2008年2月17日号 =9面=掲載
『ローザ・パークス』
 ダグラス・ブリンクス著(岩波書店、2,835円税込)

 待望の書の発行を知った時の喜びを、言葉に表すことはできない。アメリカの黒人解放運動の中で、ローザ・パークス女史の名前は早くから知られていた。ささやかなアメリカ研究者の私がローザ・パークスに最も深い関係のある生地、アラバマ州の州都モンゴメリーを訪ねたのは、15年前の1992年9月7日のことだった。
 さて、本書はローザ・パークスの生涯の戦いの歴史的・今日的意味を理解させるために、学的にも緻密な手法を駆使し、その全容を明らかにしている。以下のように私なりの評価を認めた。言うまでもなく、本書のエッセンスはローザ・パークスの名を一躍世界に知らしめた、モンゴメリーでのバスの中での出来事であった。通勤のために利用するバスが混んでくると、黒人隔離政策を当然視する悪法のために、運転手は自ら法律になりかわり、白人を座らせ、黒人を立たせ、バスの後方に移動させるのだ。黒人は抵抗しない、事なく済む。それがモンゴメリーの日常だった。
 しかし、ローザ・パークスは55年12月1日の夕刻、運転手の命令に抵抗し、動かなかった。なぜ、席を立たず、抵抗したのか。アメリカの歴史の中で、リンカーンの奴隷解放宣言(1863)後も「分離すれども平等」(1896)という最高裁判決があった。しかし、1954年5月14日、「公立学校の人種隔離は本質的に不平等」との最高裁判決が言い渡された。彼女は正義の時の到来を確信した。ローザ・パークスは一人のキリスト者として、御言葉の学びに熱心であり、教会生活に忠実だった。詩篇の23篇、27篇、第1コリント12章13節などを通して、謙遜と柔和のうちに、愛の福音を生きていた。
 しかも、M・L・キングJr牧師が、バス・ボイコット事件の前にモンゴメリーに赴任という奇跡が起こっていた。神の主権の下、すべてに時がある。イエス・キリストの父なる神が、ローザ・パークスをその時豊かに用いられたと信じたい(伝道者の書3・1参照)。

(評・西川重則=平和遺族会全国連絡会代表)

週刊 『クリスチャン新聞』 2008年2月10日号 =5面=掲載
DVD「十戒は愛のことば」
 黒田禎一郎講演説教(ミッション・宣教の声、6,000円税込)

 このたび、黒田禎一郎牧師の講解説教DVD「十戒は愛のことば」を鑑賞した。第1巻は総論として展開の主旨と方向性が示され、残りの5巻に二戒ずつ講解メッセージが収められている。シリーズの礼拝説教をビデオ収録したものだが、聖書研究として多くの方々に見ていただきたいと強く思わされた。
特徴として挙げたいことは、説教内容を字幕で表示しながら、見ている人の理解を助けようと工夫していることだ。耳と目で説教を学ぶことのインパクトの深さを、今更ながら納得させてくれる。
内容については、律法の根源である十戒は裁きや罪の確定に用いるために定められたのではなく、神の愛が私たちに示されるためであるとの基点に立ち、軽快に解き明かされている。見る人は、心躍る思いで十戒の真理を学ぶことができる。求道者であっても神さまの深い愛がわかる内容である。
 牧師や役員が信徒の言動を裁くため、あるいは勧告や忠告として「十戒」の項目を引用することが間々あるが、今回、このDVDを通して反省すべき点があるのではと痛感させられた。人間の考える愛と神の愛には本質的な違いのあることが、今回の学びで深く理解できた気がする。「十戒」は、有益かつ内面においてもうれしさを伴う律法である事がわかる作品である。
映画伝道に献身をした立場から、職業柄映像技術について厳しい目をもってしまい、作品の展開や撮影技術面にも批判的になりがちである。嫌な性分であると思う。たとえ未熟な面があることは事実としても、挿入される言葉の選択やまとめ方は、単に礼拝説教の記録とは思わせないほどのレベルである。何よりも黒田氏の語りが絶品である。アドリブやジョークも混ぜ、瞬く間に見てしまう作品となっている。感心し、感動した。そして神の愛に感激と感謝があふれてきた。すべてのクリスチャンにご覧いただきたい、そんな作品である。
(評・高原幸男=日本ミッション・映画部代表、日本ミッション・センターチャペル牧師)
週刊 『クリスチャン新聞』 2008年2月3日号 =9面=掲載
『12の危機からあなたを守る聖書のメッセージ』
 ボブ・ラッセル著(いのちのことば社、1,890円税込)

 最初、本書を手にとって、帯に「困難な時が来たら、この本を書棚から引っ張り出してください。拾い読みでけっこうですから云々」とあるのを見ました。嫌な予感がしました。「この悩みにはこの聖句。たちまち問題解決」的な内容かと思ったからです。それは杞憂でした。確かに、聖句の引用が多いのは本書の特徴でしょう。とても多いです。しかし多いという点より、むしろ危機と聖句とを文脈無視で結び合わせたような引用がないということこそ、最大の特徴ではないでしょうか。
 著者は、自らの牧会の経験を下敷きにして、私たちの身近にある危機について率直な語り口で聖書のみことばから語ります。シンプルで仰々しさのない文章です。安易な甘言もありません。聖句もただ断片的に引用されているのではありません。ヨシュア、ギデオン、ルツ、エリヤ、バラム、ヨナ、アダムとエバ、パウロとシラス、ヨセフ、ヨブ。聖書の登場人物の経験が、私たちの経験と重ね合わせてリアルに再現されています。それと織り合わせに、無数のクリスチャンたちの体験、証が語られています。12の危機を切り口として、聖書の深い真理が日常の経験の現実に適応されて語られているのです。
 実は評者は、07年の年の瀬、給与のほとんどが入った袋を盗まれる経験をしたばかりです。第4章「お金がない」は、身につまされて読みました。まず、このような状況で神が約束しておられないことが示されました。神は物質的な豊かさを約束しておられない、経済的な安定を約束しておられない。直言です。しかし神は、私たちの基本的な必要を満たしてくださる、お金がない悩みから解放してくださる、惜しまず与える者を祝福してくださる。言ってもらってすっきりするストレートな聖書のメッセージ。私は唸って「アーメン」と応答し、まずは心配しないことにしようという思いに導かれました。聖書のみことばによって守られるって、こういうことなんですね。

(評・高橋和義=日本福音キリスト教会連合・立川駅前キリスト教会牧師)
週刊 『クリスチャン新聞』 2008年1月27日号 =5面=掲載
『武将高山右近の信仰と茶の湯』
 橋敏夫著(いのちのことば社、1,115円税込)
 前著『茶の湯の心で聖書を読めば』に引き続き、本書を一読させていただきました。右近研究の大先輩である高橋牧師の著書について書評するにはふさわしくない者ですが、右近を敬愛する者の一人としてペンを執らせていただける事を光栄に思います。
 一言で言えば、右近について初めて読む方や、右近研究を目指す方々の良き参考書となる密度の濃い名著と言えるでしょう。右近を美化する事なく、高槻城主となる時の未完成の姿や完徳を目指す様子などは、自分たちのあるべき姿の道しるべのようで、いつの間にか自らを右近に置きかえて描かれているようで記述に吸い込まれる思いでした。
 52、53頁に述べられている炭点前の意味するところ、更に79頁の「捨ててこそ清い」との「侘び茶」の神髄に生きる右近の姿は、キリシタンの教えと茶道の精神、そして武士の心を見事に一致させて悠然と進み、そこに聖者の姿を見るようで、胸が躍るのを禁じ得ませんでした。
 後半の武将なるが故に人の命をも奪わねばならなかった個所に到っては、心痛む思いでした。もちろん他の武将とは異なり、つらい思いで戦場に赴いたことでしょうが、殺戮の世界に身を投じねばならなかった苦悩はいかばかりであったことか。
 茶室での篤い祈りに、長い時を用いた右近の痛み。なぜか右近は祖国追放の折、羽箒と帛紗を持参したと前裏千家家元が述べたと言います。両方とも清めに使用するお茶の必需品であります。
 異国の地ルソン(フィリピン)のマニラで63年の生涯を閉じた右近、反省の面もあったでしょう。しかし、キリシタンの柱石としての信頼は篤く、祖国のために祈りつつの死は、地に蒔かれた一粒の麦であり、多くの実を結ぶ生涯であったと言えましょう。本著より受ける教訓と恵みは絶大です。一読をお勧めします。

(評・山縣實=単立・殉愛キリスト教会牧師)
週刊 『クリスチャン新聞』 2008年1月6・13日号 =11面=掲載
『愛を伝える5つの方法』
 ゲーリー・チャップマン著(いのちのことば社、1,680円税込)
  

 本書を一読し、想起したのは評者自身の結婚当初の失敗。職場からはすぐ帰宅、家事分担は当たり前、肩も腰も喜んでマッサージ。これで妻に十分な愛を伝えたつもりでいた自分。一方、愛情飢餓を訴える妻。そうした「愛の言語」の相違に気づくのに1年以上を要してしまったあの頃。それは中国語しか理解できない妻に夫がアラビア語で愛を伝えていたようなものである。
 伴侶を愛そうと願いながら、すれ違っている夫婦は少なくない。多くの場合、その一因は「愛の言語」の相違にあるようだ。小さいながらも本質的なこの違いは、愛の努力を空しくし、時には深刻な関係悪化をもたらしかねない。本書はまず、そうした重大な気づきを読者に与えるだろう。
 さらに本書は「どう愛するか」を具体的に示している。人によって「愛情タンク」が満たされる方法は異なるが、それは類型化可能なのだ。それが「5つの愛の言語」なのである。そして、伴侶と自分の第一次言語を知ることから夫婦関係の改善は始まる。
 しかし、それは、テクニックでもマニュアルでもない。それは神の愛を基礎とした聖書的な結婚愛の実践そのものなのだ。
 特筆すべきは、「伴侶が敵となる時」と題された第12章。「非難と要求を繰り返すパターン」に陥っている夫婦もあきらめる必要はない。どちらかが真剣に関係改善を願っているなら、ぜひ、この章を読み、聖書的かつ現実的な希望をもっていただきたい。「アメリカの大ベストセラーだからといって、本当に日本の夫婦に役立つのか?」との疑問の声もあるだろう。それについては訳者が「あとがき」で明確に回答しているのでご安心を。
 本書は莫大な数の読者の結婚生活に実際の改善をもたらしてきたという。当然のことだろう。本書の内容を実行に移すことは、そのまま結婚についての聖書の言葉に従うことなのだから。

(評・水谷潔=小さないのちを守る会代表)