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| 週刊 『クリスチャン新聞』 2007年12月23・30日号 =12面=掲載 | |
『それでも主の民として』信州夏期宣教講座編(いのちのことば社、1,260円税込)![]() 日本が国家神道体制下にあった1930年、33年、岐阜県大垣市で神社参拝を忌避したクリスチャン小学生たちは、性行不良児として出席停止処分にされ、さらに彼らに非国民教育を施したとして美濃ミッション排撃運動の嵐が大垣市全体に吹き荒れた。ニュースに震撼した全国のキリスト教界は、美濃ミッションを否定して保身を図った。 第一に岩崎孝氏は国家神道成立と治安維持法によるキリスト教弾圧への過程を克明に語り、事件の背景を明らかにする。 第二に石黒イサク氏は、小学生の神社参拝回避と学校による処分、新聞の偏向報道と民衆による美濃ミッション排撃運動、そして、他の教会の振る舞いを再現する。講演には現代の教会に対する提言が満載である。例えば、神社参拝の定義を決めるのは国でなく聖書に立つ教会であるとか、自由な今こそ絶対に譲れない信仰告白の最低限を確認しておくことが重要であるとか。 第三は日本基督教会大垣教会牧師久米三千雄氏の講演で、排撃運動のさなか「同信の友を否定する言論を弄し」た大垣教会は、近年、美濃ミッションに謝罪し厚意をもった和解の返答を受けたと報告される。 そして登家勝也氏は、日本基督教団の過ちとは、節を曲げた程度のことでなく、教会が国家神道体制の一部と化して国策を推進した罪だと指摘する。 最後に、山口陽一氏は、日本基督教団の罪の核心は、伝道のためと言いつつ第一戒に背き聖書の位置に「皇国ノ道」を置いたことであり、結局、その伝道は戦争協力にすぎなかったと指摘する。 昨年末、教育基本法が改定され、「伝統と文化を尊重し…我が国と郷土を愛する」という文言が盛り込まれた。「伝統」の意味は「天皇を中心とする神の国」である。さらに憲法20条と9条も改変されようとしている。この時代に再び道を踏み誤ることなく、主の民として歩み通すために、すべてのキリスト者に本書の精読をお勧めしたい。 (評・水草修治=日本同盟基督教団小海キリスト教会牧師) |
| 週刊 『クリスチャン新聞』 2007年12月16日号 =9面=掲載 | |
『教育改革者ルター』金子晴勇著(教文館、2,625円税込)![]() ミッション系の学校に勤める者にとって、ゆとり教育や生きる力といった教育改革論議に傍観を決め込むことはできないが、何か的がずれていると感じることの方が多いのではないか。 本書は、その答えをルターに見いだし、180度異なる視点から回答を試みるルター論である。ルターは主体的判断と行動ができる子どもの教育、つまり人文主義的な発想を肯定しつつ、しかし信仰を最優先させた宗教教育者であったと、著者は言う。 ルターの受けた教育、当時の神学教育、宗教改革の混乱の中で、ルターが推し進めた学校教育、ギリシャ哲学を根底とする道徳や倫理に対してルターの考えた宗教教育の違いなどが分かりやすく解説され、現代的な意義が解説される。 圧巻は最後の2章である。ルターは近代的教育が目指す人間ではなく、あくまでも罪ある人間が一方的に神より恵みを受け、神への奉仕の業を人間教育の理想としていると強調され、今日の論議に新しい視点を投げかける。 今日の言葉で言えば「主体性」が人間の行為に焦点を当てている以上、そこには行為義認の誤りが生まれること。ルターは福音的な義、つまり神により一方的に与えられる信仰による義、道徳でなく福音による義認がコペルニクス的転換として存在した。神との間柄である「義」、それにより人間と教育への改革が生まれたのである。 神の教育は、試練の中で育まれ、霊的な人間への「試練による愛の教育」がなされる。ここに「生きる力」ではない本当の力が育まれるとも取れる。 内的な努力の限界を試練の中で知り、原罪を認め、各自の試練の過程で神を見いだすことが、教育の目的とされる。これが信仰によってのみ義とされる意味であり、ルターの目指した教育改革の本質であるという。現代の教育者にとり、初心に戻る最適な書である。 (評・湯口隆司=聖望中学校高等学校教諭) |
| 週刊 『クリスチャン新聞』 2007年12月9日号 =5面=掲載 | |
| 『説教塾ブックレット6 礼拝を問い、説教を問う』 加藤常昭著(キリスト新聞社、1,890円税込) ![]() 私どものささげる礼拝をより豊かなものとしたい、―すなわち、生ける神のご臨在が現され、集う者が喜びと慰めに満たされ、罪が明らかにされ、その罪の赦しが起こり、そして新来者が加えられ、救いの経験と受洗へと導かれていく。私どもが、そのような礼拝を願うならば、本書は必読の書であると確信する。 著者がこのテーマを掲げられたきっかけは、「日本基督教団式文(試用版)」(日本基督教団信仰職制委員会編)が刊行され、この式文が指し示す礼拝のあり方への疑問からである。いわゆるリタージカルな礼拝、聖餐を中心として礼拝を整え直していこうという動きが、日本基督教団などだけでなく、私どもが属している福音派の教会にも現れている。このような状況に対して、著者の言葉は厳しい。「今日、リタージー強化による礼拝刷新を意図する時、そこに伝道のパースペクティヴがどれだけ豊かに働いているかを批判すべきことは当然である。式文試用版には、〈伝道地日本〉だからこそ、『簡略な礼拝式』であったからと言いながら、それにまさって『欧米先輩諸教会の礼拝刷新のバスに乗り遅れないことが大切だ』と言いたい口ぶりが見られる。現在の日本のプロテスタント教会が置かれている伝道状況の厳しさの認識が鈍いのではないか。…そのような状況において、復古調の典礼刷新がどれほどの伝道の成果をもたらすと言うのであろうか」(49、50頁)。 著者は東京神学大学で礼拝学を講じておられた方であり、日本における実践神学の第一人者である。もちろん礼拝における聖餐の意味を、無視しておられるわけではないし、また、礼拝を「礼拝式」として(司会ではなく)「司式」すべきものであることも、語り続けておられる。 なおも伝道地である日本において、より豊かな礼拝を目指すことが急務である。そのためにこそ、著者は改めて説教を問われるのである。神の言葉の説教こそが、礼拝をまことの礼拝たらしめるのである。(評・鈴木英夫=日本ホーリネス教団成田教会牧師) |
| 週刊 『クリスチャン新聞』 2007年12月2日号 =9面=掲載 | |
| 『主の園は賛美に満ちて 筑波キングス・ガーデン創設物語』 三谷六郎・恵子共著(いのちのことば社、1,365円税込) ![]() 大きく成長し続けている(14県42施設)日本キングス・ガーデン連合。その初穂となった筑波キングス・ガーデンの創設者、三谷六郎・恵子夫妻の歩んで来た道が1冊にまとめられた。 個人的な事で恐縮だが、私がかつて牧会していた新潟の教会に、ミッションスクールの高校生だったご長男義也さん(現在牧師)が毎週礼拝に通ってくださった。それはちょうど、筑波キングス・ガーデンがスタートして間もないころで、私たちも応援の祈りをさせていただくこととなった。 それはさておき、本書の特長は字が大きくて読みやすいことと、加えて36枚の写真あるいはイラストが視覚に訴えてくる。支援してくださった代表の方々(安藤仲市、本田弘慈、羽鳥明諸師)の当時のアピール文も掲載されていて、霊的滋味にあふれている。沿革および概要が、資料的価値を高めている…などが挙げられよう。 目次に従って紹介すると、第1章 生い立ち−戦争の闇の中から、第2章 ビジョン−「孤児や、やもめが困っているときに…」、第3章 アメリカへ−恵み・夢・祝福をたくわえて、第4章 困難と奇蹟−筑波キングス・ガーデンのおこり、第5章 開園へ−ダビデが喜び踊ったように、第6章 生涯の宝物−恵子の証から、最後に「軽費老人ホーム筑波キングス・ガーデン沿革および概要」、「おわりに」では、ご夫妻のその後の歩みが簡潔に記されている。 本書はキリスト教精神による老人ホーム創設物語だが、そこに関心のある方だけでなく、すべてのキリスト者に必要な祝福のヒントが散りばめられている。 それは第1に、神のみ言葉に堅く立脚し、信頼し続けるということ。第2に、夫婦の一致したビジョンと献身。第3に、派遣し支え続けてくれる教会の祈りがあること。 ぜひ手にとって確認してくだされば、アーメンと唱和してくださるに違いない。 (評・池田勇人=日本同盟基督教団・霞ヶ関キリスト教会牧師) |
| 週刊 『クリスチャン新聞』 2007年11月25日号 =5面=掲載 | |
| 『真夜中に戸をたたく キング牧師説教集』 クレイボーン・カーソン/ピーター・ホロラン編著 (日本キリスト教団出版局、2,730円税込) ![]() 梶原寿氏の「あとがき」によると、長年手をつけようと思いながら放置してきた本書の翻訳を急きょ思い立った理由の一つは、先日天に召された妻の久江様が大手術を受けたことにあります。主治医による術後の厳しい説明を聞き、動転する心の状態の中で訳者は本書の翻訳作業に取りかかりました。自宅療養の妻を介護しながら時間をつくり出して訳業を進め、一編一編訳了するごとにそれを音読して病床の妻に聞いてもらいます。妻は病の疲労に耐えて全11編の説教を忠実に聴きます。訳者は記します。「だから本訳書は文字通り訳者と妻との共同作業の成果である」と。キングの迫力ある言葉が、日本語としても読者の心に響く理由の一つがそこにあります。 マーティン・ルーサー・キング二世牧師は、米国における公民権運動の指導者、ノーベル平和賞の受賞者として知られる人物ですが、「彼はまず何よりも第一に、ナザレのイエスの福音の宣教者」でした。「私には夢がある」はあまりにも有名ですが、本書の出版によって、読者はより深く福音の説教者としてのキングの魂に触れることができます。本書に収められた11編の説教のすべてが、キング牧師の命懸けの言葉であり、「21世紀の今もまったく古びることなく、私たちの魂を激しくゆさぶり、私たちの生き方を変えるように促してくる」霊的な力に満ちています。 キングによれば、真夜中は単に外的な社会秩序に存在するだけではなく、我々の内的な心理的および道徳性の中にも存在しているものです。彼はキリスト教会自体に欠如しているものがあると指摘しますが、それにもかかわらず、教会は重要であると確信して語ります。なぜなら「そこには命のパンがある」からです。「このように今日の教会は、あらゆる複雑な個人的および社会的問題の中で、神の御子イエス・キリストが人々の希望であることを宣教するように、挑戦されているのである。多くの人々が人生の諸問題への答えを求めて、これからも引き続き教会を訪ねてくるであろう」(説教「真夜中に戸をたたく」より)。現代の預言者の言葉がここにあります。 (評・古川修二=城陽ナザレン教会牧師) |
| 週刊 『クリスチャン新聞』 2007年11月18日号 =9面=掲載 | |
| 『神の民の礼拝』 カンバーランド長老キリスト教会日本中会礼拝委員会編著(一麦出版社、2,520円税込) ![]() 礼拝書に対して評価を下すことは容易ではない。それは実際に礼拝の中で用いられ体験されていくものであり、その中でこそ、その意味が問われ、常に新たに発見されていくものだからである。しかし、その上であえて言わせていただければ、すばらしい可能性をもった礼拝書であると思うし、この出版を心から感謝している。 この礼拝書に与えられた名称は「神の民の礼拝」である。そこにも見られるように教職の立場に立った権威的な式文集ではなく、礼拝で神と出会う「神の民」たる会衆の立場に立って作られた礼拝書であることが随所において感じられる。 提示されている基本的な礼拝の流れはシンプルかつ明瞭であり、同時に神と民との生き生きとした出会いの場をつくり出している。教派的な伝統を重んじつつ、世界標準となりつつある礼拝順序に沿ったものなので、海外から来て礼拝に出席する人々がいても違和感を覚えないことだろう。 特筆すべきは、多様な祈りや言葉が選択できるようになっていることである。これまで、私たちは「礼拝はこうでなくてはならない」と思い込まされ、固定された順序、固定された言葉を読み続けてきた。だが、この礼拝書ではさまざまな状況に対応できるよう配慮がなされている。前書きに「各個教会の文脈、あるいはその場、そのときの状況に応じ、創造的に用いることが望ましい」とある通りである。それによって毎週の礼拝は、新鮮で豊かなものとなっていくことだろう。 礼拝文や祈りの言葉は、今日を生きる私たちの現実をよくすくい上げており、文章としても整えられている。さらに「生け花奉仕者の祈り」や「動物の埋葬の祈り」など、これまで全く配慮されていなかったが、多くの信徒が求めていた祈りが示されており、それらはキリスト者の信仰生活により広い示唆を与えるものとなると思う。 この礼拝書はカンバーランド長老教会だけでなく、日本のすべての礼拝者にとって、貴重な財産となっていくことだろう。 (評・小栗献=日本基督教団神戸聖愛教会牧師) |
| 週刊 『クリスチャン新聞』 2007年11月11日号 =5面=掲載 | |
『STAND』大薮順子著(フォレストブックス、1,575円)![]() 人生の中には、避けて通りたいことが自分の身に起こることが時としてある。深い悲しみ、怒りの中での絶望感、もう2度と癒されないのではないかと思う恐怖。身に起こった出来事に傷つき、周囲の反応に傷つき、乗り越えられない自分に傷つきいらだつ。二重三重の苦しみの中で、神様の助けはどこから来るのか。 アメリカでフォトジャーナリストとして活躍する大藪順子氏は、ある晩、人生を大きく変えてしまう恐ろしい事件に巻き込まれる。そして何一つ、変わってないはずの部屋、職場、生活すべてが、レイプ事件によって景色を変えてしまう。想像を絶する悲しみ、怒りの中で、立ち上がるすべとは何か。 環境を変えても、一度体験した恐怖は簡単には消えてくれない。何より、教会が目の前で悩み苦しむ人に寄り添えない現実、性犯罪にまつわる問題を抱え、隠し続けている実態に胸が苦しくなった。しかし、彼女の葛藤や苦しみの日々の中にいつも聖書の言葉が共にあり、どんな時も神様は語り続けている、何にも代え難い希望を感じたのも確かである。そのせいだろうか、本書を通して、神様の力強い手が大藪氏を大胆に導いていることが伝わる。 そして、立ち上がる瞬間。神様から与えられたフォトジャーナリストとしての才覚は、レイプサバイバーの写真を撮ることによって、「立ち上がる」一歩となった。この空の下に生きるすべてが、神に造られた存在であること、今の自分を感謝し、喜ぶことをいくつもの出会いを通し、体で覚えるに至った。 年齢や性別、立場などは一切関係なく、すべての人に読んでほしい。生きている中で、出合う苦悩、深い痛みは神様によって必ず癒され、その時、私たちは立ち上がっていくことができるのだ。 神様の助けはいつも私たちのすぐ近くにある。「希望」という言葉を彷彿とさせる1冊である。 |
| 週刊 『クリスチャン新聞』 2007年11月04日号 =9面=掲載 | |
| 『「セカンドチャンス」は本当にあるのか』 ウィリアム・ウッド著(いのちのことば社、840円税込) ![]() 神学教育に携わる者としてここ数年、「セカンドチャンス肯定論」が声高に語られるようになっているのを憂慮していました。神学校を巣立っていく牧師たちが、人(特に日本人)に耳障りの良い事を言ってあげたくなる誘惑に打ち勝ち、真理の御言葉をまっすぐに説き明かす、恥じる事のない働き人になってほしいと願います。神学生たちにもぜひ読んでほしい1冊です。 著者は、セカンドチャンス肯定論者が根拠としている聖書箇所を、一つひとつコンテキストを考慮しつつ丁寧に検証し、それらの聖句が「一つの例外もなく、死後の救いを主題とする文脈の中に置かれていない」(77頁)事を明らかにしています。そして、セカンドチャンス肯定論は、聖書の主題や文脈を考慮せず、また正当な釈義のルールに基づいていない「聖書から逸脱した教理」(77頁)である、と結論付けています。さらに、「セカンドチャンス論」を否定する多くの聖書的根拠を挙げ、死後には救いのチャンスがない事を十分に論証しています。その上で、自らも宣教師である著者は、「今、福音を伝えなければ、人々は永遠に滅びる」という事を痛感して、命がけで伝道を続けるように(56頁)、また聖霊の働きに信頼して神の栄光を待ち望みつつ、「古い福音」を語り続けるように(79頁)と、すべてのキリスト者を鼓舞しています。死後にも救いのチャンスがあると教えている人たちには、「セカンドチャンスが実際になかったとしたら、この教理は人々を滅びに追いやるもの」で、「きわめて危険な教理」であるという著者の厳粛な警告に(78頁)、耳を傾けてほしいと思います。 セカンドチャンス論は、肯定論も否定論もおおむね、信じて救われる人間の側からの議論のように思えますが、評者は救いが神の主権的選びと予定によるという観点から、人を生きている間に救うことができる神は、死後に人を救う計画をお立てにならないと考えています。さらに多くの方々がこの重要な問題に取り組まれる事を願います。 (評・後藤喜良=同盟福音基督教会可児キリスト教会・芥見キリスト教会牧師、東海聖書神学塾教務主任) |
| 週刊 『クリスチャン新聞』 2007年10月28日号 =5面=掲載 | |
『賛美のこころ』工藤篤子著(イーグレープ、1,575円税込)![]() 工藤篤子さんの賛美には、圧倒的な臨在感と、人々にご栄光の主のみ顔の輝きを見せる「力」があります。 その「力」の源が、日々主のみ顔を仰ぎつつ歩んでおられることにある、ということが、『賛美のこころ』には表されています。半生とミニストリーのひと足ひと足の歴史を回顧され、神様にどのように取り扱われ語りかけられ、そのみ声にいかに応えてこられたかが克明に描かれ、行間からも賛美の心があふれています。与えられた賜物を活かしつつ、主の大庭に入るめぐみが語られ、平和の祈りと賛美が聞こえてきます。 2007年8月、ミラノで開催されたヨーロッパ・キリスト者の集いで、工藤篤子さんは賛美チームのメンバーとして主を見上げつつ、ひたむきに奉仕されていました。十字架のもとに、賛美にあふれ、みことばの光に照らされ、重荷を分かち合い、主のみ顔を仰ぎつつ共に祈りました。 工藤篤子さんは世界各地を巡回し、歴史と変革の中を歩む人々に心の叫びをひたむきに響かせ、各地のブリッジビルダー(架け橋となる人たち)による尊いお祈りと協力に支えられ、めぐみの輪が広がっています。そのミニストリーの歴史を通して、ダイナミックに今も働いておられる主の豊かなみわざ、躍動感あふれる豊かな音楽の息吹を覚え、共に祈り共に走り続ける励ましをいただきます。 本文の引用聖句にあるローマ8章28節を振り返り、聖霊のうめくようなとりなしのゆえに、「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」ことを感謝します。 いつも主を仰ぎ、みこころを悟りつつ歩んだモーセが、主に叫んだ時、主は応えてくださいました。主に叫び、主に感謝し、祈りと賛美にあふれつつ、工藤篤子さんのチャレンジと読者の皆様の営みを主が祝してくださることをお祈りいたします。 (評・青木勝 =音楽・美術による文化交流ミニストリー代表) |
| 週刊 『クリスチャン新聞』 2007年10月21日号 =9面=掲載 | |
『マルチン・ルターの生涯と信仰』徳善義和著(教文館、2,625円税込)![]() 本書は91年から92年まで、キリスト教ラジオ放送局「FEBC」から放送されたものをまとめたもの。ルターの生涯と信仰を興味深く読み進み、その間に難解なルター神学も理解できるよう構成されている。 普通、宗教改革は1517年10月31日、ヴィッテンベルグの城教会の門扉に貼り付けられた95か条の提題に始まったことになっており、日本でも多くの教会ではこの日を宗教改革記念日として記念行事をもっている。本書は、発端になった免罪符の問題が、どれほど深い神学的な背景と政治的、経済的、社会的な広がりをもっていたかを分かりやすく説明し(第3話)、1521年4月のウォルムス国会で、近代ヨーロッパ社会を生んだ最初の良心宣言「私の良心は神のことばにとらえられています」が、どのような背景と状況の中で生まれてきたかを、あたかも自分が目撃者から聞いているかのような語り口で書き記している(第4話)。 著者に言わせれば「宗教改革とは、聖書をめぐる運動でした。聖書を読む運動だったのです」(第2話)。ルターは1513年から詩篇を講義する中で、「神の義」について思い巡らし、さらにローマ1章17節「神の義は福音の中に啓示される」によって救いの確信に入れられるが、それは教会の権威や教えによらず、聖書そのものから得た確信であった。しかし、ルターはその確信を自分個人のものにとどめず、「講義と説教」を通して分かち合う。また、具体的には、聖書の翻訳という形で現れた。1521〜2年、ワルトブルグでの孤独の9か月(第5話)は、新約聖書のドイツ語訳を生み出したが、それはさらに続く12年間に及ぶ旧約聖書翻訳事業へとつながっていく(第11話)。ルターの聖書翻訳の原則は、一方では原語に忠実であり、同時に「私はこの聖書の翻訳をする時に、『民衆の口の中をのぞき込むようにして』言葉を選んだ」。 この聖書の「分かち合い」の精神は、450年後の第二ヴァチカン会議以後の各国の共同訳聖書出現により、全キリスト教会において実を結ぶことになる。 (評・鍋谷堯爾=神戸ルーテル神学校教授) |
| 週刊 『クリスチャン新聞』 2007年10月7日号 =13面=掲載 | |
| 『祈りと瞑想』古田 暁訳 (ゴフェルトゥリープロダクション、1,890円税込) 「知解を求める信仰」または「プロスロギオン」として知られるアンセルムスの著作は、神学の教科書の中で「神存在の証明」の古典として登場する。中世スコラ時代の遺物のような小難しい書物なのだろうと開きもしなかった。ところが、この書物がすぐれて瞑想的な書物であることに気づかされたのは、恥ずかしながら最近になってのことである。 “祈りの法則が信仰の法則”となることは、古代から中世にかけての神学を理解する上で最も重要な視点の一つであるが、そのことはスコラ学の父アンセルムスにもあてはまる。いく人かの修道僧に請われて編まれた本書は、この傑出した神学者の魂の深奥を垣間見させる、キリスト教霊性史上「革命的」と言われた異色の祈祷書・瞑想書である。 本書は、アンセルムス自身による「祈祷集の読み方」の指示に続く18の祈りと、3篇の瞑想からなる。聖母マリアを始めとする何人かの聖人たちにささげられる祈りには正直、かなりの違和感を覚える。が、よくよく読み味わってみると、それらは聖書に描かれた聖徒たちについての深い瞑想と、何より今や天上においてキリストと共にいる彼らの強烈なリアリティーに基づいていることがわかる。中世人にとって、天上の聖徒たちがいかにリアルな存在であったかを実感させられるのだ。 もう一つ、全編を通じて読者に迫って来る霊性は、その驚くべき罪意識である。著者は自らの罪性を執拗なまでに追求し、魂の闇の奥底までも降って行く。そうして初めて、その罪人をもお救いになる神の圧倒的な愛の力の瞑想へと魂は飛翔するのである。もちろんそれは、いまだ宗教改革における「ただ信仰のみ」の告白には至らない。けれども、そこにつながる霊性の流れを間違うことなく見いだすことであろう。 神学や教会史・霊性史を学ぶ者にとっての必読書がまた一つ、日本語で読めるようになったことを心から歓迎したい。 (評・吉田隆=日本キリスト改革派教会仙台教会牧師) |
| 週刊 『クリスチャン新聞』 2007年9月30日号 =9面=掲載 | |
『初めに、神が』遠藤嘉信著(いのちのことば社、1,365円税込) 「果たしてどこまでできるか、創世記1章からの講解にとりかかって、3章15節までで再び入院となってしまった。計10回の説教を許された。これまでもそうだったが、講壇は真剣勝負の場であった。そして毎回、語ることができる幸いに感謝した。・・・2007年1月14日、日曜日、詩篇40篇16節から語った。最後まで話すことができた。本当に感謝だった。そしてついに限界がきた。再度の入院。呼吸器の疲労。自分の声での説教はもはや困難となった。だからあとは文字が書ける限り執筆で仕える以外にない」 これは、呼吸もままならない病床の中、指1本でパソコンに打ち込んで仕上げられた “あとがき”の一文である。本書は、今年6月23日、筋萎縮性側索硬化症(ALS)で天に召された遠藤嘉信師の、死の淵に身を置く中、礼拝で語られた創世記1章から3章15節の講解説教集である。 遠藤牧師は明確な福音的立場に立ち、歴史の延長線上における事実の記述として創世記をとらえる。そのことの正当性にも触れつつ、妥協を許さない厳密な釈義に基づき、創世記1章から丁寧に解き明かしていく。その文章は実に分かり易く、リアルで臨場感に溢れている。それゆえ読む者をいつしか聖書の世界に引き込んでしまう。この世を創造された主の思いが、アダムとエバの心の動きが、手に取るように浮かび上がる。私たち罪人の姿、罪人を愛する圧倒的な主の愛、そして十字架の救いの御業にいたる主のご計画が、立体的に浮き彫りになってくる。そして、単なる机上の空論としてではなく、この世を創造された永遠の主が、今生きる私たちの全生活に介入される、真に生きたお方として心に迫ってくる。 遠藤牧師はこう記す。「創世記は初めから神の愛と優しさで溢れているのだ」。読み終えた時、本当にその通りの本であると思った。同時に本書は、主に忠実に仕え続けた遠藤牧師と主との、聖書を介して交わした親しい会話記録とも言える気がした。 (評・波多康=日本同盟基督教団衣笠中央キリスト教会牧師、ゴスペル企画ミニストリー代表) ※全国キリスト教書店で発売中。 |
| 週刊 『クリスチャン新聞』 2007年9月23日号=5面=掲載 | |
DVD「万物の起源」(日本語版:ゴフェルトゥリープロダクション、1,575円税込) この世界はどうして存在するのか…多くの人が一度は考えることだろう。これまでは、宇宙も生命も長い時間の経過の中で自然にできあがってきたという進化論の考え方が広く受け入れられてきた。また、教育現場やマスコミはそれを当然の事実のように扱っている。最近では、進化論に関する多くのドキュメンタリー番組が美しい映像とともに放映され、大変な人気を博している。「これが進化論ではなく、聖書の創造を土台として製作された番組だったら良いのに」と思ってこられたクリスチャン兄姉も多いのではないだろうか。かく言うわたしもその一人である。そのような方々に朗報である。創造論に基づいたドキュメンタリーDVDが登場したのだ。 タイトルは『万物の起源』。実際に視聴してみると、まず美しいグラフィックスで進化論の要旨が紹介される。そして専門家へのインタビューを交えながら、宇宙の進化、化学物質から単細胞への進化、単細胞から人間への進化があり得るか、といったテーマが、創造と進化の考え方を対照させつつ分かりやすく解説されていく。それが終わると、最新の科学的発見が聖書にあらかじめ記されていたという実例をあげながら、聖書が創造主からの啓示であることが示され、福音のメッセージで締めくくられる。 このDVDは、視聴者がクリスチャンであるか否かにかかわらず、偉大な創造主の存在と聖書の真実性、またわたしたち人間がいかに特別な存在であるかということを力強く伝えてくれる。これをご覧になる兄姉は、聖書の神への信仰は迷信ではなく真理であるという確信をさらに強められるであろう。また、進化論に基づいて社会をつくってきたがゆえに、いのちの尊厳性を見失いつつある現代の日本人に時至ってこのような作品が与えられたことは実に意義深いと言えよう。 (評・赤江弘之=東京キリスト教学園理事長、同盟基督・西大寺キリスト教会主任牧師) ※全国キリスト教書店で発売中。 |
| 週刊 『クリスチャン新聞』 2007年9月16日号=9面=掲載 | |
『はじめてのカルヴァン』C・エルウッド著(教文館、1,995円税込) 原題「寝ころがっても読めるカルヴァン」(出村彰氏)が示すように、本書には学術書の難解さはなく、わかりやすさと、読者へのこまやかな配慮とが随所にうかがわれます。ただし、ただわかりやすさが追求されているというわけでもなく、内容からすると充実したカルヴァン神学の入門書であり、カルヴァン学習を志す方のための、見取り図もしくは道しるべとされることでしょう。 著者のクリストファー・エルウッド氏は、ケンタッキー州にある長老教会系ルイスヴイル神学校で教鞭をとる新進気鋭の神学教師であり、本書には、とりわけ若い世代の疑問に焦点をあわせた論点がうかがわれます。さらには、邦訳を担当された出村彰氏は日本における宗教改革史研究の第一人者であり、カルヴァンをはじめ宗教改革時代に精通した歴史学者による信頼のおける日本語版であることも、本書の優れた特色の一つとされるべきでしょう。 それにしても、カルヴァンへの「くわずぎらい」は多岐にわたります。予定論論争をはじめとして、反対者つぶしだけを考えている論争好きで人間味のない学者。自分と意見の違う人を断罪してやまない冷酷な牧師。これまで、そのような先入観がカルヴァンにむけられてきたことをふまえて本書を読んだ者としては、本書がこれまでカルヴァンに絡みついてきた偏見や誤解の糸を一本一本解きほぐしつつ、血の通ったカルヴァン像を読者に印象付けようとしている良書だということでした。 ただし、本書の特色の一つとされているとはいえ、老人の姿をした神など、わかりやすさを演出するためのイラストについては、カルヴァン本人から「この種のものは、常に霊的なものに対するよりも、物体的・可視的なものへの依存を増大させる危険を伴う」(本書67ページ)という警告がきこえてきそうです。たとえそれらを割り引いたとしても、日本語で読める優れたカルヴァンの入門書として本書が果たすであろう役割の大きさを疑いません。 (評・吉井春人=日本長老教会東京中会教師) |
| 週刊 『クリスチャン新聞』 2007年9月9日号=5面=掲載 | |
| 『新約聖書における教会形成』 松永希久夫著(教文館、2,625円税込) 本書は、1994年に日本基督教団中渋谷教会「土曜講座」で計10回行われた講演を文書化したものです。著者は東京神学大学で30年以上にわたって新約学を講じると共に、のべ17年間学長として激務をこなし、また全国761の教会で説教するなど文字通り日本中を奔走して教会に仕えた後、一昨年天に召されました。 評者も教えを受けた者の1人ですが、本書を読んで著者が徹頭徹尾、教会を愛し、教会を形成するという目標にひたすら専心した牧会者であられたことを改めて感じています。卒業後、すぐに地方で開拓伝道を始めた評者を心配して、師は近くに来るたびに足を伸ばして教育講演会や祈祷会の講師を買って出てくださいました。超多忙の中、それだけの時間を割くのはどれほど大変だったでしょう。深い感謝と畏敬の念を覚えます。 本書は、「福音理解の多様性によって根底を揺るがされている」という危機感に満ちた教会の現状認識から始まっています。キリスト論のタイプを体制否定者/改革者、福祉家/人道主義者、贖罪者/永遠の命、という三群に括り、「正統的」である3番目のキリスト論を擁護していかねばならないという使命感をもって、新約諸文書の教会理解を観察し、また使徒的権威と職制、説教、聖礼典といった具体的課題における教会形成を論じています。したがって、著者(と受講者)の問題意識が「日本基督教団の混乱、信仰告白の混乱」の中で「正しい信仰」を護ることにあるという特殊な文脈を知らずに読むと、現代のキリスト論や教会論について偏った理解をしかねないので、その点は注意が必要です。 置かれた立場のゆえに、対決的にならざるをえなかったのでしょうが、本来、著者の「神の国運動」理解は、「すべての人の日常生活の中に、神が姿を現し、交わりを求めておいでになる。…その神の支配を宣べ伝え、神の手、神の指となってイエスが振舞う」という、広く開放的なものであると思います。 (評・荒瀬牧彦=カンバーランド長老キリスト教会めぐみ教会牧師) |
| 週刊 『クリスチャン新聞』 2007年9月2日号=9面=掲載 | |
| 『ユタ州とブリガム・ヤング アメリカ西部開拓史における暴力・性・宗教』 高橋 弘著(新教出版社、2,415円税込) 活発な伝道プログラムを進めて、世界に1000万人以上の信者をもつに至ったモルモン教。そのメッカであるソルトレークで開催された02年の冬季オリンピックの際、正統なキリスト教としての清潔なイメージを宣伝し、アメリカ合衆国の08年大統領選挙の共和党の候補者として、ミット・ロムニーという信者を送り出している。 しかし、この巨大な宗教団体のプロパガンダの背後には、恐ろしい歴史が隠されている。本書の中で、その歴史が見事に暴露されている。19世紀におけるモルモン教は、歴然としたカルトであった。教祖ジョセフ・スミスの暗殺後、モルモン教会のリーダーとして立ち上がったブリガム・ヤングは、敵の迫害を逃れ、また政府の干渉を排除するために、1847年に残りの信者たちを連れて、ユタへの集団的大移動を始めた。当時のユタは陸の孤島であった。そこでモルモン教の独立国家、つまり神の法が支配する「神の王国」が実現するはずであった。 ところが、信者たちの希望に反して、実際に建設されたのは、ブリガム・ヤングの王国。ヤングは絶大な独裁体制を確立したうえで信者を完全にコントロールするようになったばかりでなく、什一献金や州税の名目で信者のお金を搾り取り、50人を超える妻をもった。更に1857年、自ら組織した民兵によって開拓民の一行120人の集団を殺し、その金品財貨を略奪したりした。いわゆる「マウンテン・メドウズの大虐殺事件」である。 では、モルモン教会は過去の醜い歴史を認め、その清算をし、組織の改善を図ったのだろうか。著者の答えは、「否」である。教団の上層部は歴史的事実に関する徹底的な隠蔽工作を断行し、ヤングと変わらない絶対的な権威を主張しつつ、信者の生活を支配している。著者はこのような宗教団体を「末日聖徒イエス・キリスト教会」と呼ぶことは、「イエス・キリストの神聖な名前をはなはだしく冒涜することである」と結論づけている。 (評・ウィリアム・ウッド=真理のみことば伝道協会代表) |
| 週刊 『クリスチャン新聞』 2007年8月26日号=5面=掲載 | |
『私の愛国心』クリスチャン新聞編(いのちのことば社、735円税込) クリスチャン新聞が「私の『愛国心』」の連載を始めた時、一方では戦後レジームからの脱却を唱え、教育基本法、憲法改正に手を付けた安倍内閣の暴走を前に時にかなった企画が始まったと思った。一方「誰もが持つも国心とキリスト者の愛国心は違う。ではキリスト者の愛国心とは?」というあたりが企画の意図なのではないかと筆者なりに感じ取り、そこに「愛国心をもつこと」が前提とされているのでは、という小さな違和感を覚えた。あらためて1冊にまとめられた本書を手に取り、生まれ育った世代や文化、国籍の違う多様な14名の方々の声を聴きながら、「国」を「愛する」、「心」という一つひとつの言葉を噛みしめている。郷土としての「国」か、権力装置としての「国」か。「愛する」対象は被人格的なものであり得るのか。この国にあって福音を宣べ伝える時に、パウロの同胞への愛を「愛国心」と呼ぶことはできるのか。神が与えてくださった私たちの「心」に、果たして国は愛を強制することができるのか。そもそも「愛国心」という言葉と思想が「何よりも聖書で教えられているのか、世々のキリスト教会が信仰告白として掲げたのか」(41頁)という渡辺信夫氏からの問いに直面させられるのである。冒頭の「小さな違和感」を克服するためには、これらの問いに評者自身が御言葉によって考え、答えを出していくほかないのであろう。本書をきっかけに、特に教会の中の若い世代の方々が「愛国心とは何か」という問いと向き合い深い思索に導かれることを期待したい。 最後に、岡田明氏の「私たちの国籍は天である。隔ての壁は十字架で取り去られた。私たちはどこかの国の国籍をもっているかもしれないが、この世にあっては寄留者である。主から選ばれ、福音で生かされ、この国に遣わされた『主の民』である」(22頁)という力強い言葉が心に留まった。なお、山口陽一氏の締め括りの一文が、すでに本書のすぐれた書評の役割を果たしているように思える。 (評・朝岡勝=徳丸町キリスト教会牧師、日本同盟基督教団「教会と国家」委員会委員長) |
| 週刊 『クリスチャン新聞』 2007年8月19日号=9面=掲載 | |
『第二ヴァティカン公会議』G・アルベリーゴ著(教文館、2,415円税込) 本書は一カトリック信徒である著者が、一般の信者がこの第二ヴァティカン公会議の出来事を過去のものとして退けることなく、その今日的意味を学びとり、その中心にある福音的な精神を信仰生活に生かしてほしいとの願いを込めて書かれた。 20世紀キリスト教界最大の出来事と言われるこの公会議はどのようなものだったのか。その実態を公会議内部でかかわった者の視点から書き記している。その内容は公文書の解説ではなく、それらがどのような背景から出て来て、その採択にあたって教会内部でどのような問題が存在していたかなどを、説明している。 特に興味を引くのは、公会議を導いた2人の教皇の内心を描いている部分だろう。公会議の開催を決断した教皇ヨハネ23世の苦悩、またそれを受け継いで完成させた教皇パウロ6世の指導力など、指導者としての教皇の姿を垣間見ることができる。 更に「教会の現代化」「教会一致の促進」「信徒使徒職に関する考察」など、重要なテーマについて短く解説している。この1冊で公会議の背景と概略を学ぶことができる。 これまで21回の公会議が開催され、神学の構築や教会の組織化などに寄与した。しかし同時に、それはほかの神の民との分断を生じさせたことも事実だ。そのような第一・第二千年期の教会の歴史を再検証し、新しい歩みを目指した決議がこの公会議でなされたことを忘れてはならない。特に1045年以来破門し合っていた東方教会との対立の克服や、トレント公会議以降に教会から疎外された聖書を取り戻したこと、プロテスタント諸派との対話推進など、開かれたカトリック教会の姿を見せていることにも心を留めたい。 『和解の福音』を標榜する日本の福音主義の諸教会はこの公会議をどう理解し、どう向き合っていくべきなのか。その問いの中に21世紀の福音的地平を開く一つの課題が隠されているように思える。救いに向かって旅をするすべての神の民に読んでいただきたい1冊である。 (評・具志堅 聖=日本福音同盟総主事) |
| 週刊 『クリスチャン新聞』 2007年8月12日号=5面=掲載 | |
『聖霊の神学』M・ヴェルカー著(教文館、4,830円税込) 本書はやわらかい食べ物ではない。かなり固い食べ物である。何度も何度も噛んで消化に努めると、今までにない味がわかってくる。そういう書物である。 本書の著者 M・ヴェルカ−は、現在はハイデルベルク大学神学部組織神学主任教授の職にある。モルトマン、パンネンベルクに続く世代の代表的神学者である。本書の著者は神学と哲学の両方で博士号を取得しており、本書では哲学的思索も重要な役割を果たしている。この点に食べ物の固さの理由の一つがあるかもしれない。 本書において、著者はこれまでの神学が還元主義的一面性に傾いてきたことを批判する。還元主義的神学は、現実の多様な次元に目を閉ざし、例えば「主観―客観―関係の哲学的図式」や「我−汝−関係の対話的図式」、あるいは「社会的道徳主義」といったような思惟によって現実を一面的に還元させ、抽象化する神学のことである。 これに対して、著者は「現実主義的神学」を提唱する。この神学は神の現実が単純な体系化や経験様式よりもはるかに豊かであることを明らかにする神学である。それは「豊かな聖霊の生き生きとした現実性へ眼差しを向ける」神学のことを意味する。このことを明らかにするために、著者は聖書神学的叙述を展開する。本書の序論を粘り強く読み進むと、聖霊についての充実した聖書神学的叙述の道に踏み入る。本書の主要部分であるこの部分が福音主義神学の立場に立つ者にとってもきわめて有益である。福音主義神学がこれまで十分には見つめてこなかった聖霊の働きの諸側面が明らかにされている。真の霊と偽りの霊の識別問題への新しい洞察も提供されている。また、最終章の“聖霊の公的人格”の概念は聖霊の働きの公共性に目を開く。この概念には聖霊の働きを個人的次元に還元しやすい福音主義神学にとっては傾聴すべき真理契機がある。訳文に関しては、原文の難しさは理解できるがもう少しわかりやすく工夫すべきであろう。 (評・牧田吉和=日本キリスト改革派教会山田教会牧師) |
| 週刊 『クリスチャン新聞』 2007年8月5日号=9面=掲載 | |
| 『ボンヘッファーとその時代 神学的・政治的考察』 宮田光雄著(新教出版社、3,990円税込) 本書は現代日本で求め得る最高の「ボンヘッファー書」である。ボンヘッファーに対する深い尊敬をもち、現代政治学の最高峰の研究者である著者にして初めて書き得た書である。 著者はナチ・ドイツの時代と精神を「疎外」として位置づけ、「疎外」の極限形態としてナチズムを位置づけた。これは著者の政治哲学に基づく分析によって可能になった視点である。 本書の最大の貢献は「責任倫理」の問題と「真のこの世性」の問題を解明してくれている点である。「究極的なもの」と「究極以前のもの」との関係によるキリスト教とこの世界の関係解明はバルト=ブルンナー論争に関する解決である。そして「真のこの世性」はキリスト教の啓蒙主義、科学主義時代における在り方を解明する問題である。ボンヘッファーも著者も近代啓蒙主義、近代科学主義は、前近代の宗教世界の人間学的未成年状態からの成長を目指した運動であったが、そのことが運命となった時代に私たちが生きていると指摘し、人間はもはや前近代的宗教言語によって、生きることができなくなったと指摘する。 ナチ・ドイツは「ヒトラー言語」でドイツの成人した世界の疎外状況を克服しようとしたが、それは「20世紀の神話」でしかなかった。それに対し、ボンヘッファーは「キリストの言葉」でこの状況を突き抜けようとした。それはパウロのいう「十字架の言葉」である。 「それ十字架の言は滅ぶる者には愚かなれど、救はるる我らには神の能力なり」(Iコリント1・18、文語訳) 時代は神話から科学へ、そして「神学」の時代へと進んでおり、今や「人の子」キリスト・イエス、「子なる神」イエス・キリストの「受肉」と「十字架・復活」の秘儀の真の意味を理解できる時代に来たという、神からのメッセージが本書を通して聞こえて来る。 (評・東條隆進=早稲田大学社会科学総合学術院教授) |
| 週刊 『クリスチャン新聞』 2007年7月29日号=5面=掲載 | |
| 『日本の説教U 榎本保郎』 榎本保郎著(日本キリスト教団出版局、2,625円税込) 榎本牧師との出会いは1947年、9歳の時、朝、子どもたちを教会に集めんと太鼓をたたいて、町内に回って来られた時でした。細い背の高い青年でした。次回は1964年、神学校を出て赴任した今治教会でした。この榎本牧師に信仰・説教について教えられました。 〈「キリストに就いて語るとキリストを語る」の違い〉 未熟な伝道師に、説教者の課題は何かを教えられました。榎本牧師は「キリストに就いて語るのではなく、キリストを語れ」と。たとえ聖書解釈がしっかりできて、良い例話を配しても、それは聖書の説明に終わるとの忠告でした。「キリストを語る」ことが目標となりました。正に榎本牧師は「キリストを語った」牧者でした。 〈神の言葉の真実と力に出会った牧師〉 私の耳に残っている榎本牧師の言葉は「御言葉への聴従」です。神のお言葉を聞いてお従いすることは誰しも大変です。お言葉にお従いできない、罪深い自分を隠されませんでした。 次にお言葉に従う者に、主は言葉がお言葉通りになることを知らされました。これによってキリストと、その力に出合われ、「五餅二魚」の説教でも聖書の言葉の背後にある、生き働いておられる神の力への確信が、わかり易いエピソードと相まって、私たちをお言葉の真実に導いてくれます。 〈「祈って」生ける神と出会った牧師〉 榎本牧師は神学部の同級生や友人から「まだ祈ってるか」と冷やかされたそうです。ただ熱心に祈るとか、多く祈るというのではなく、神のお言葉を信じ自らを委ねて歩み始めると、神との格闘が始まります。誰しもヤコブのように祝福してくださるまで離しませんと叫びます。榎本牧師の祈りの文章は、お言葉と神に賭けた者の力があります。榎本牧師の説教は、生けるお言葉への実力と神の愛に私たちを招いています。 (評・佐藤博=日本基督教団丸太町教会牧師) |
| 週刊 『クリスチャン新聞』 2007年7月15日号=9面=掲載 | |
| 『もしかすると、この時のため』 遠藤嘉信著(いのちのことば社、1,365円税込) 去る6月23日天に召された遠藤嘉信牧師が生前出された最後の書。エステル記本来の内容とあいまって、残された者たちには特別な思いが重なる。 本書は遠藤先生が06年早春、和泉福音教会で行った説教の原稿をほぼそのまま本としてまとめたものとうかがった。繰り返し、素読・聖書を開きつつ・説教するつもりで時に声に出して読んでみた。幼なじみの優しい「遠藤君」に違いない部分がある。召命を受けて特別な訓練を受けた牧師・教師としての遠藤先生の敬虔と学識がある。それ以上に、自分の病を感じ始めた頃の、命を賭して御言葉を語る真の献身者の姿を感ぜずにはいられなかった。 本書ではエステルを巡る「見えざる神の御手」とともに、そこに私たちもまた生きるべきことが丁寧に説き明かされている。「すべてが益となること、…神が描いておられる人生のシナリオの中でどのようにつながっていくのか、ということを期待し、待ち望むのです」(32頁)、「信仰というのは、余裕やゆとりから来るものではなく、やみの中で、もがきながら、見えない神の臨在とその慈愛に満ちた働きを信じることです」(66頁)、「神の摂理という偉大な教えがひとたび私たちの理解の中に入ってくると、自分の勝手な願いを脇に置くように導かれ、神の御手のわざに目を留めるようになります」(107頁) 聖書(説教個所)が聖書全体(引用)から語られる。さらに、ご自身の子をすでに天に送っておられ、自身がまた生を見つめる中で、神の前に人を深く洞察する実存がある。もちろん、その全体に共通する人格的な神への信頼。それらの故に平易な言葉の中にも説得力があり、心に触れるものがある。まさに、生きた教会に対する生きた牧師の説教集である。遠藤先生が最後の力をふりしぼって家族に残したメッセージは、「あ、い、し…」であったと主治医の先生が語っておられた。その心と主の栄光が証される書である。遺された3人の家族に心よりの祈りを込めつつ。 (評・菊池実=日本同盟基督教団上大岡聖書教会牧師) |
| 週刊 『クリスチャン新聞』 2007年7月8日号=5面=掲載 | |
『カルト宗教』紀藤正樹、山口貴士共著(アスコム、1,890円税込) 副題に「性的虐待と児童虐待はなぜ起きるのか」とあります。現代のカルト問題でも特に注目されている課題を取り扱ったものだと分かります。キリスト教に関連する事件でも、京都の聖神中央教会の性的児童虐待、摂理の教祖(5月初旬に逮捕)のわいせつ事件など、副題にあるような事件が続いて起きています。カルト宗教に内在する「性的虐待と児童虐待」を解明することがカルト宗教の本質を解き明かすこと、という趣旨で、今後を見据えた刺激的な著作です。 第1部は、『「カルト」とは何か―今、私たちが知り、すべきこと』で、「本書を読み進めるための基礎知識」と序に書かれています。統一協会・オウム真理教の事件を通して見えてきたもの、ことに「オウム真理教では、信者・構成員に対する人権侵害が横行していたのであり、そのような感覚麻痺は、次第に外部者への人権侵害に対する感覚麻痺につながり」(本書79頁)と事件が内部の虐待に根があったこと、虐待が発生する構造に注目することがカルト問題の解明であると指摘します。 本編でもある第2部では、著者が毎年出席している国際カルト研究学会の文献6篇を翻訳し、カルトの「性的虐待と児童虐待」に先進的に取り組むアメリカの状況を紹介しています。いずれの文献も生々しい事例の報告に基づく具体的なサゼッションで刺激的でもあります。収められている文献は、「彼女はもうこっちのもんだ」「支配と服従―女性の性心理的搾取」「カルトの中の母親たちー母子関係にカルトが与える影響」「閉鎖的集団におけるセックスと嘘と思考の操作」「どこにも行けないー鉄格子のない牢獄の中の人生」「聖書の教えに従う穏健な集団から破壊的なカルト集団へ」となっています。 カルトの内部構造を知るための絶好の書であり、文献中にはもし相談を受けたらどのように取り組んでいけばよいかという配慮もなされています。カルト問題で教会に相談があった場合、ぜひ備えておきたい1冊です。 (評・平岡正幸=日本福音ルーテル三鷹教会牧師、日本脱カルト協会理事) |
| 週刊 『クリスチャン新聞』 2007年7月1日号=9面=掲載 | |
| 『子どもたちに寄り添う』坪井 節子著 (いのちのことば社、1,365円税込) 評・崔 善愛 新生児医療に携わる友人から、こんな話を聞いた。出産を終えた母親が生まれたばかりの赤ちゃんを抱くことを拒絶し、おっぱいもあげられないという話だった。母親になったばかりのこの女性は、かつて親から虐待を受けた経験をもっていた。 愛情を育むはずの家で虐待を受け、生まれてこなければよかったとこぼす子どもたち。「助けて」と叫ぶこともできず、逃げる場所もないまま、死にたいと思うまでになってゆく子どもたちに、著者は「悪いのはあなたではないのよ」と語りかける。その姿を通して「子どもたちに寄り添う」とはどういうことなのか、自分を傷つけた大人を否定し拒絶する子どもたちが、人間への信頼と生きることの喜びをどう取り戻すのか、深く考えさせられる本だ。 著者は弁護士として多くの少年犯罪に付添人としてかかわり、自暴自棄になった子どもたちを前に葛藤をくりかえす。そして子どもたちに向けられた「世間の冷酷なまなざしに怒り、役に立たない自分の無力さが悲しくて、悔しくて、一晩泣き明かすこともしばしばでした」と苦悩する。その日々がどんなに長くつらいものだっただろうか。「あの子どもたちの涙の一滴、血の一滴を抱き止めてくれる神にいてほしいと。いてもらわなければならないと」。やがて30年間離れていた教会に再び戻り、「『神さま、私はあなたを裏切った人間です。だから私を救ってくださいとは言いません。でもどうか、あの子たちだけは抱きとめてください。私たちには、どうすることもできないのです。あの子たちの苦しみや悲しみを抱きとめてくださるのは、あなたしかいないのです。』おろおろと、しかし必死に祈りました」…。この祈りは苦しむ者のそばに寄り添った人にしかなし得ない。その命をすくい上げるような真実の言葉は私たちの心を大きく動かす。 「だれがいじめを生み出しているのか。大人たちなのです。そこにメスを入れないかぎり、いじめはなくなりません」と切実に訴え、泣く者とともに泣きながら信仰の道にたどりついた著者。本書を多くの人に勧めたい。 (評=崔善愛・ピアニスト) |
| 週刊 『クリスチャン新聞』 2007年6月24日号=5面=掲載 | |
『メソジストって何ですか』 清水光雄著(教文館、1,890円税込) 「『メソジストってなんですか』の問いに対する一つの答えは、神と隣人を愛し、『聖なる生活』を求める愛の人間形成である」。約40年ものウェスレー研究で清水氏が得た確信である。人は過去について、過去それ自体の基準とは異なる後世の基準を用いて判断する過ちをおかす。「メソジスト」についても同様だ。救いの確証や先行の恩恵、聖霊体験というメソジストのキーワードが、ウェスレーの時代自体の知的・文化的文脈(ロックなど啓蒙思想の影響)・神学的文脈(国教会の神学的特徴)・経済的文脈(アダム・スミス)などに基づき丁寧に読み直されていく。飛行機で地上に近づくにつれ徐々に車や人々の姿が見えてくる、そんな感じだ。 本書が提供するのは知的満足だけではない。メソジストを学ぶ者の幸いは、行動へと駆り立てられることであろう。貧しい人々へのイエスの心・愛の気質を得るよう、ウェスレーは「恩寵の手段」のうち「憐れみの業」を徹底的に実践・指導した。だが、今日のメソジストの基準はこの「憐みの業」を欠き、誤ったメソジスト理解に陥っている。「愛の人間形成」に必須な「憐れみの業」がなぜ継承されていないのか。啓蒙思想との対話という清水氏の卓越した手法で、ヒューム、ハチスン、ジョナサン・エドワーズ、フレッチャーらとウェスレーを対話させ、「情感的道徳心理学」をキーワードに原因を探る。 最後は、清水氏の別の精通した視点、ウェスレーと国教会と東方の神学との関係から、他宗派・他宗教との対話に開かれたウェスレーの神学的・哲学的立場の大胆な読み解きがなされる。「愛の人間形成」「愛における救い」はメソジストやキリスト教徒以外でも可能か。ウェスレー、清水氏、読者の間の緊張が高まる。 本書は、単なるメソジストの解説ではない。真摯に研究や大学教育、牧会に取組んだ清水氏から現代社会への訴えも多く含む。大学教科書としての想定もあり、読者は一定の教養・読書力が必要だ。 (評・馬渕 彰=日本大学法学部准教授) |
| 週刊 『クリスチャン新聞』 2007年6月17日号=7面=掲載 | |
| 『イングランド・ピューリタニズム研究』 松谷好明著(聖学院大学総合研究所、8,400円税込) 大学で英国ピューリタニズムの授業を行う場合、日本語で資本主義・民主主義などの近代化精神を生み出したピューリタンの思想的探求の参考書はある。しかし、ピューリタンの神学者・牧師・信徒たちの歴史的文脈での神学的・教理的・教会的視点でとらえられた日本語の参考書は稀である。著者が文献の一次資料を用い、歴史を変革する開放的な普遍性を求め、6年半に及ぶ資料探求に基づいて歴史的文脈に沿い、神学的に探索し、400頁を超える大著を出版されたことは、研究者にとって喜ばしい限りである。 本書は第1部(1〜4章)でピューリタニズムの諸相を述べる。1章はピューリタニズムの祖・穏健派であるカートライトの歴史的神学の有意義性と矛盾性である。著者自身もそうであるが、安息日厳守主義者の歴史的思索と、永遠を巡礼者として歩む現代的意義が2章。3章はカトリック教会の秘蹟としての結婚観、独身優位の聖職者非結婚観に対抗するピューリタンの結婚・離婚の教会法上の諸規定問題。4章は伝統的・学問的注解の英国国教会39箇条を十分に学び、ウェストミンスター信仰告白の今後の目指す現代的方向性を問う。 第2部(5〜7章)では17世紀教会政治の論争。5章では「ピューリタン革命」が国教会復帰後の状況で批判的に解釈され、絶対王政下の主教派も、教会統治機構なき政治的あり方に終始した長老派も、組織的脆弱さの会衆派も生命力を枯渇したという。6章は名誉革命後、水と油の関係の長老派と会衆派の結んだ合意項目がエキュメニズムの再評価に光をもたらしたこと。7章ではウェスレーがキング卿の『原始教会考』を学ぶことで「ウェスレーとメソジズムは長老主義である」との由縁が語られる。 著者はウェスレーとキング卿との関係を正確にとらえていないとメソジスト研究者を批判するが、全体性の神学を中核とするウェスレーを考えるとこの批判はどうだろう。 (評・清水光雄=静岡英和学院大学教授) |
| 週刊 『クリスチャン新聞』 2007年6月10日号=5面=掲載 | |
| 『啓示と三位一体 組織神学の根本問題』 近藤勝彦著(教文館、5,775円税込) 「ノーセオロジー・ノーチャーチ:神学なしに教会なし」、フォーサイスのこの引用が本書の著者である東京神学大学教授・近藤勝彦氏の心のありかを物語る。教会の神学的思惟の貧困化に危機感を抱き、この克服の刺激になることが本書の目的である。 読者は、質の高い神学的思惟に触れることで、教義学の最初の部分にある「啓示と三位一体」の神学的議論のまん中に引き込まれる。20世紀西洋の代表的神学者のうち、特に対照的な2人の思想の紹介と批評が軸になる。イエス・キリストの啓示を永遠の現在において把握するカール・バルトと、終末までの普遍史の中に進展的実体的に神が自己啓示すると考えるヴォルフハルト・パネンベルクであるが、著者はそのどちらにもくみせず、信仰が歴史から孤立化し抽象化する傾向にも神が歴史に依存し、その結果、相対的・汎神論的になる傾向に陥らない自らの議論を展開する。 本書はほかで発表されたものの修正や書き下ろしによる11章からなるが、神学的考察の出発点となる啓示の概念から始まり、キリストと啓示の関係、キリストの神性を接点として三位一体論、そして創造論、人間論に及ぶ全体の流れは論理的で理解しやすい。 神学の貧困は遠く西洋の思想の反復では克服されない。近藤氏は問題意識を生む欧日の思想史的・社会的背景の相違をふまえ、議論を「21世紀のアジアにおける日本の教会」という文脈に翻訳するが、興味深いのは、それを越えて日本発の視点で西洋神学の見落とした課題として10章「伝道」の神学を、11章「祈り」の神学を取り上げるところである。 近藤氏の福音理解の詳細は、今後期待される本書の続編としての「和解論」や「終末論」において議論されるであろう。評者としては、「信仰と理性」の問題や「信仰告白」の意義の検討の欠落が物足りない。特に後者は著者の主旨の実現に貢献することがらなので、今後の検討を期待する。 (評・正木牧人=神戸ルーテル神学校助教授・教務、西日本ルーテル西神教会協力牧師) |
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| 週刊 『クリスチャン新聞』 2007年6月3日号=9面=掲載 | |
| 『現代を創造的に生きるために』河野勇一著 (いのちのことば社、1,260円税込) タイトルを見て、人は思わずこの著を手にとるであろう。「現代」(いま)、人は「創造的に生き」たいと深く願っているからである。しかし次の瞬間、この著が創世記1〜11章を素材にした黙想集であることを知るとき、あるいは意外に思うかもしれない。創世記などは、「現代」からほど遠いというのが一般的印象だから。しかし著者は、これらの章が現代人に深く語りかけていることを簡潔な文章で説き明かし、人間の根源的な諸問題を、テキストを鏡にしながら網羅的に扱っている。 まず神に呼び出され、神との人格的経験をした者のみが、この世界の由来を神の創造によるものだと洞察し、その混迷にもかかわらず、恵みの中を感謝と喜びのうちに生きる、と教えている。 また、現代人が直面している深い問いは人間とは何かということであろうが、著者は人間創造の記事から聖書に聞き、本来の「神のかたち」であるキリストを知るとき、自分が「神のかたち」として造られた「気高い存在として見る根拠が与えられる」と答える。実に積極的な人間理解である。 さらに、「終末が近い、終末が近い」と「騒ぎたてて」いる現代、著者は「世の終わり」の来ることは「7日目」の記述から察知することができるがそれは「単なる終わり」ではなく、主の再臨を機に「もっと素晴らしい新天新地を造」られる「新しい日の夜明け」と展開している。ノアの記事にも同様の観点が述べられ、神にある希望が語られる。 52の黙想という体裁は、著者が牧する教会の礼拝でなされた講解説教の凝縮である。見開きで「1日分」、あるいは「1週間分」の現代的霊の糧を得ることができる。深く豊かな内容がコンパクトにまとめられているが、著者の労のあとを見る思いがする。現代的諸問題を鋭く意識し、旧新約を組織神学的に見つつ、一般学的知見の広さなどを背景にしながら、全体を黙想の形にする。「世界と人間」について混迷を経験しているこの現代に向かって、創世記を語らせている意義深い著作だ。 (評・橋本昭夫=神戸ルーテル神学校校長) |
| 週刊 『クリスチャン新聞』 2007年5月27日号=9面=掲載 | |
| 『ユダの秘密−−「裏切り者」とその「福音書」をめぐる真実』 J・M・ロビンソン著(教文館、2,940円税込) 著者は、イエス研究、ナグ・ハマディ文書の先駆的研究などで有名な学者で、クラレモント大学院大学に古代・キリスト教研究所を創設、所長も務めた人物であり、現在は名誉教授である。本書はマスコミで騒がれたユダ福音書について一般読者向けに著した書(原題『ユダの秘密:誤解された弟子と彼の失われた福音書の物語』)の邦訳である。 著者は、エジプトのナグ・ハマディから出土した写本を解読し、校訂して英語に翻訳したものを公にした編集責任者として知られている。ナグ・ハマディ写本とはグノーシス主義と呼ばれる初期キリスト教の異端の文書であるが、ユダの福音書もグノーシス主義の文書と理解されている。 著者のもうひとつの専門分野は、Q資料である。Q資料とはマルコ福音書にはなく、マタイ福音書とルカ福音書とが共有している部分の資料として学者たちが想定している資料のことである。Qという資料は発見されていないが、ロビンソンらはQ資料を復元する作業に取り組み、結果を公にしている。この2つの領域の専門知識が駆使されている。 ナショナル・ジオグラフィック誌などで公にされたユダの福音書に関する「公式報道」に懸念を抱く向きには、本書の一読をお勧めしたい。著者は、2世紀の文書であるユダの福音書で従来のユダ像を覆すのは無理だと明言する。歴史のユダを探るには、ユダの福音書ではなく新約聖書内の福音書こそが重要な資料であり、ユダの福音書はむしろ2世紀のグノーシス主義について多くを教えてくれる、と。マスコミが利潤追求目的のために、ユダの福音書がセンセーショナルな形で報道された、と著者は指摘する。 とはいえ、本書にも問題はある。著者は新約聖書の福音書の記述の歴史性を懐疑的に扱っており、イエスに12人の弟子がいたことは史実ではない、ユダの裏切りは預言の成就であると言うが実は預言に基づく歴史の再構成にほかならないなど、福音主義の立場とは異なる理解も論じられている。 (評・伊藤明生=東京基督教大学教授) |
| 週刊 『クリスチャン新聞』 2007年5月20日号=9面=掲載 | |
| 『なおも未熟な日本人−−成熟社会への道筋』岩村信二著 (創元社、1,785円税込) 戦後60年がたち、日本は「成熟社会」の仲間入りをしたという。しかしこれは、日本のGNPや経済、技術面でのこと。モラルやパーソナリティーのソフト面では「なおも未熟な日本人」という状態が続いているという。 親子関係や上司と部下の関係に見られる上から下への未成熟な愛が、多くの人間関係の中にあり、身分や力関係において対等に交流する「成熟した愛」とは対極にあるという指摘や、「日本人という集団的パーソナリティーは他人の不幸には同情するが、他人の幸福には共歓しない偏ったパーソナリティを持つ」「異質なものへの嫌悪ないし、嫌悪感・同質なものにだけ抱く親近感」という記述にはなるほどと思わされる。 「日本人の幼児性」については様々なことが言われているが、西欧文化(特にアメリカ文化)を絶対のスタンダードにして、論を張っているものが少なくないように思える。しかし、本書は最終章に「聖書における『成長』」を取り上げ、「人間を成長させる要因は常に神にある…人間の成長は必ずしも一方通行のように成長に向かうのではなく、時には挫折し、時には自己否定をしながら、それにもかかわらず長い目で見れば成長したと…これは宗教、無宗教の違いを超え、教育のすべてにわたって真理」としている。 このような筆者の指摘に、大いにうなずくとともに、うなずいている自分は、はたしてどちらに立っているのだろうかとあらためて考えてみる。結局この未熟社会の一員としての歩みから抜け出せていないのではないかと反省させられる。 日本の教会の閉塞感がいわれて久しいが、その一つの大きな要因がソフト面での「なおも未熟な日本人」ではないだろうか。 教会という社会、社会の中での教会という視点での成熟が、閉塞感を破る大きな力となるのではないだろうか。 (評・中野晶正=クリスチャン新聞編集長) |
| 週刊 『クリスチャン新聞』 2007年5月6日号=5面=掲載 | |
| 『キリスト教の天国』アリスター・E・マクグラス著 (キリスト新聞社、2,310円税込) 天国を見た人はいません。しかし天国への憧れは、「幻想でも空想でもなく、私たちを待っている実在の世界に呼応するものです」(220ページ)。いわば万人に通じる天国への憧れを、聖書と西欧キリスト教の文学から神学的に解説することが、本書の試みです。 「都」「庭園」「門」という、聖書も文学も芸術も用いてきた天国のイメージを解説しながら、マクグラスは、万人が抱く天国への憧れを2つの方向から説明します。 一つに、愛する者との死別を機会に、私たちは天国への思いを深めていきます。14世紀の詩「真珠」の作者は、死んだ恋人の身体が朽ち果てていくことに耐え難い悲しみを感じます。しかし詩人は、恋人が天国でキリストの花嫁となり、真珠で美しく飾られている姿を夢で見て、大きな慰めを得ます(43ページ)。その思いが強まれば、19世紀のロゼッティによる「祝福された乙女」にあるように、天国は「愛欲のない理想的な世界」ではなく、「恋人たちが再び結ばれる」楽園として描かれます(207頁)。 いま一つに、神の似姿に想像された人間は、そもそも「楽園郷愁」を抱くように造られているというのです。マシュー・アーノルドの詩を著者は引用します。 「けれども、いまだ、ときに触れ、ぼんやり遠く、まだ現れていない魂の地下深くからあたかも無限に遠くはなれた国から一つの旋律と漂う響きがやってくる。そして、我々の一日を物悲しさで満たすのだ」。天国への憧れは、「ぼんやりと霧に包まれていても、感情を揺さぶり知的な情熱を引き起こして、その真の源や目的地を探求させずにはおれない」(177ページ)というのです。つまり、それは「神から来て、神を指し示し」(219ページ) ています。 黒人霊歌は、「悲しみを慰める香油」(213ページ) です。本書からその香りが漂ってくるのには、型どおりの神学を越える著者の感性ばかりか、翻訳者の力量も貢献しています。 (評・藤本満=インマヌエル高津キリスト教会牧師) |
| 週刊 『クリスチャン新聞』 2007年4月29日号=5面=掲載 | |
| 『パイオニア リーダーシップ21』呉正賢著 (小牧者出版、2,310円税込) 著者の呉正賢牧師は現在、韓国サラン教会の2代目主任牧師として、また「一人ひとりをキリストのうちで完全な弟子として立たせる弟子訓練」の牧会哲学を通して、韓国内をはじめ世界的に最も注目され、用いられている21世紀の教会リーダーの1人である。 <序論>において、新しい時代の一番大きな話題は、教会が「どうすればワンマンスタイルではなく、共に力を合わせて働き、チームワークを成し遂げてリバイバルを起こせるか?」、そのために「ネットワークの働き」または「結ぶ働き」の必要性について記し、<本文>において、@器を備えよう(牧会者の容量と変化)Aここから始めよう(肥満と成長を冷静に見分け、いのちに満たされた組織で)Bシステムをネットワークしよう(分散されている働きに枝をつけ、全体の体制を考える/躍動性のあるネットワーク/区域組織と小グループ)Cヒューマンパワーをネットワークしよう(チームの働きとして)D信徒を働きの最前線に伴おう(礼拝を立体的に企画する/一人の魂に集中する集会に変える/霊性訓練を常時化する/弟子訓練をネットワークの中核に/他)と非常に明快かつ具体的に21世紀のわれらが目指すべき教会像について論じ、<結論>において、ネットワークの働きはバランスを取ることで完成される、と説く。 著者の深い学識と過去20年間にわたるさまざまな牧会経験の汗と献身と実践の中から生み出された様々な事例と資料に基づいて、21世紀の的確な時代分析と共に、21世紀に生きる教会の健全な方向性、基盤、洞察、指針について多くの知恵と示唆を与えてくれる書である。 これまでのいつの時代もそうであったのとは比較にならないほど、21世紀はまったく違った新しい時代である。21世紀の教会形成に召されているすべての教会リーダーたち、特に若き牧会者、教会リーダーに一読を勧めたい。 (評・下道定身=日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団札幌レインボー・チャペル牧師) |
| 週刊 『クリスチャン新聞』 2007年4月22日号=5面=掲載 | |
| 『嘆きは踊りに変わる』ヘンリ・ナウエン著 (あめんどう、1,785円税込) ノートルダム・イェール・ハーバードで牧会心理学の教鞭を取りつつ、最後まで人々の苦しみに寄り添い、人生の暗闇に耐える希望をもたらすという使命に生きた、ヘンリ・ナウエン。その講義ノートや説教原稿を綴って出来上がった本書は、私たちに、慰めに満ち、洞察に満ちた多くのことを語ってくれる。 かつて小渕春夫氏と“あめんどうの会”を催した時、1人の人が、“教会で耳にする福音は浅くて、到底私の苦しみに届かないのです”とその参加動機を語ってくれたが、頭の信仰や痛みの伴わない傍観者的態度でなく、比類のない正直さ、誠実さでもって、自らの心の貧しさを生きたナウエンの魅力の1つはその“深さ”とすぐれた“洞察力”にある。このことは60歳を境に〈キリスト教良書を読む会〉自称(ベテルの会)をつくり、各地に出むいてみて、私自身確信した事実である。 さて、苦しみにある時、とかく私たちはその痛みから解放されることが先決だと考えがちであるが、ナウエンは、苦しみを生き抜くことを学ぶなら、神はもっとそれを大きな目的のために用いられるようになるというのである。つまり、本書によって私たちは「人生で遭遇する痛みを否定するのではなく、この困難な場に神を招き入れることによって、より深い満たしへの道となる」ことを知ることができる(本書17頁)。 困難の中の希望とはそのことであり、踊り(ダンス)とは私たちを傷つけているものに向かい合うことを意味する。そこには、1)小さな自己からより大きな世界へ、2)握りしめることから手放すことへ、3)運命から希望へ、4)操作することから愛することへ、5)恐怖に満ちた死から、喜びに満ちた生へ、という5つのステップがあるという。 キリスト教的思想、思索の貧しさにあえぐ、今日のキリスト教界にあって、ヘンリ・ナウエンという鉱脈を得たキリスト者は、今日生きて働く神の実在(リアリティー)を実感するにちがいない。 (評・工藤信夫=平安女学院教授、精神科医) |
| 週刊 『クリスチャン新聞』 2007年4月15日号=11面=掲載 | |
| 『「アメージング・グレース」物語』ジョン・ニュートン著 (彩流社、2,100円税込) あの名曲「アメイジング・グレイス」を、本格的に日本に紹介する本が出ました。『「アメージング・グレース」物語 ゴスペルに秘められた元奴隷商人の自伝』(彩流社)です。これは、この歌の作詞者であるジョン・ニュートンの自伝、彼が書いた「その後のジョン・ニュートン」を中澤幸夫氏が訳したものですが、巻頭に訳者による解説が載せられています。氏は、この名曲の価値を、文化史的見地から詳しく述べています。 わたしは、『賛美歌・聖歌ものがたり』(創元社、1995年)に、この名曲についての記事を書きましたが、その際には、参考にできる日本語の本はいのちのことば社が出版したニュートンの自伝しかなく、あとは、英文の彼についての伝記だけでした。それですから、この新刊書を読んで、私は多くのことを教えられて、感謝しています。 子どもが無かった彼ら夫婦が、彼の姪のエリザを愛していたのに、14歳8か月で天に召されたこと、妻は10年の間病に苦しみ、がんで召されたことを知りました。その後、彼と妻が愛していたもう一人の姪のエリザベスが、彼の世話をしていたのに、彼女は神経の不調に見舞われて、彼と別れ、老齢の彼は、苦しみに潰されそうになったというのです。 「その後のジョン・ニュートン」を読んで、私のニュートン像は、新しい奥行きをもつようになりました。妻に対して、世の常ならぬ深い愛を抱いていた事は知っていましたが、2人の姪にも細やかな愛情を注ぎ、その一人の死と、もう一人の心の病を嘆き悲しんだことを知ると、彼が書いた多くの賛美歌の言葉が、私の霊魂(たましい)に彼のハートの鼓動を伝えてくれます。 彼は、「アメイジング・グレイス」に神の恵みと愛を歌いましたが、その歌は、このような温かいハートから湧き出たのです。 (評・大塚野百合=恵泉女学園大学名誉教授) |
| 週刊 『クリスチャン新聞』 2007年4月8日号=19面=掲載 | |
| 『平和の契約』ウィラード・M・スワート著 (東京ミッション研究所、7,140円税込) 著者のウィラード・スワートリーは合同メノナイト神学校(米国インディアナ州エルクハルト)名誉教授(新約学)である。彼は、平和主義で有名なジョン・ヨーダー、グレン・スタッセンらとも親交が深い。 本書は、『Covenant of Peace 』(Eerdmans、2006)のほぼ3分の2を訳出したものである。本書の題は、神が新しい契約「平和の契約」を結ぶと語られたエゼキエル34章から取られている。新約聖書(新しい契約)は、まさにその平和の契約という観点から見るべきであると著者は考える。 過去数世代の新約学研究において「非暴力」や「非抵抗」というむしろ何かの否定としての言葉は用いられているが、積極的な「平和」および「平和作り」への言及はほとんどなかった。本書の重要な貢献は、新約聖書が、武器を取らず暴力を用いず積極的に創造的に平和を作り出す神の国のヴィジョンを指し示していると論証するところにある。 本書は、序と結論部以外に10章から成り、共観福音書、使徒言行録、パウロ書簡、ヘブル書・ヤコブ書・Tペトロ書、ヨハネ文書、黙示録において、平和および平和作りがいかに論じられているかを各章で論じている。 高札撤去以来の日本のキリスト教は、今日まで殉教者をほとんど出さずに来た。戦後、日本のキリスト教界は平和主義を支持するが、それは必ずしも「覚悟をもった」ものではないのかもしれない。またその平和主義の基盤は、具体的な聖書の証言よりも抽象的な文化価値であることが多い。本書の著者は、迫害の中でも決して暴力の道を選ばなかった「覚悟をもった」アナバプテストの伝統に立った新約学者である。必要な時は暴力を用いてでも世界を導くという国家教会的メンタリティーでは見えてこない新約聖書の証言を、著者は平和的ビリーバーズ・チャーチの視座から映し出している。今日のキリスト教社会倫理、特に平和主義の問題を扱うにあたって本書は不可欠な貢献をし得る。 (評・藤原淳賀=聖学院大学総合研究所助教授) |
| 週刊 『クリスチャン新聞』 2007年4月1日号=11面=掲載 | |
| 『「ヨハネの手紙第一」の研究 聖書本文の帰納法的研究』 津村春英著(聖学院大学出版会、4,200円税込) ヨハネ福音書に関する専門的研究は近年目覚ましいものがあるが、ヨハネ書簡に関する研究は緒についたばかりである。そんな中、日本語での本格的な研究書が出版されることは大変喜ばしい。本書は著者による聖学院大学大学院での学位論文である。 「序論」における研究史の概説の後、4章からなる「本論」では緻密な本文の釈義が展開される。本書の特徴は、並行法、対立的並行法、キアスムスなどの旧約聖書の詩篇に多く見られる技法を指摘することにより、漸進的論理展開を見せる本文を分析している点であろう。読者は、「ヨハネの手紙一」をめぐる批評的な諸課題を詳細に知るだけでなく、着実な本文批評に基づき、またヨハネ福音書を始め新約聖書のほかの文書との比較の中で、一語一語を大切にする堅実な釈義に大いに啓発されよう。殊に、本書簡内で多用される字句の用例集が数多く掲載され、大変有益である。 著者は、「ヨハネの手紙一」を福音書よりも後に書かれたヨハネ学派の作とみなす。本書簡の著作の意図は、「永遠の命」が信仰者に与えられていることの意義を強調しつつ、イエスの受肉を否定するキリスト論の非を正し、御子イエス・キリストの永遠の命に生き、互いに愛し合うことをヨハネ共同体に対して説くことにあると結論する。その背後には、誤ったキリスト論のゆえに共同体から出て行った人々の存在がある(2章19節)。 ヨハネ福音書とその神学思想の歴史的発展説との関連で「ヨハネの手紙一」を歴史的に位置づけることは実証が難しい作業である。しかし、「ヨハネの手紙一」が、パウロ書簡やペテロ書簡に特徴的な概念や用語を反映しており、ヨハネ福音書にとどまらず、広いキリスト教の神学思想を享受しているという本書の指摘は傾聴に値する。本書が、説教者や聖書学徒によって読まれることで、日本における新約学の発展につながることを願う。 (評・小林高徳=東京基督教大学教授) |
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| 週刊 『クリスチャン新聞』 2007年3月25日号=11面=掲載 | |
| 『田中恒夫・遺稿集 キリストにおいて満たされています』 田中恒夫著(アシュラムセンター刊、1,680円税込) 「榎本先生は、“朝の20分があなたを変える”と、毎朝の密室の祈りを勧めてくださった。また、それを教えるだけでなく、実際に実行させてくださった。…」と、折あるごとに田中先生は語ってこられた。そして、「神は人を用いておられます。人と人とを出会わせてくださいます。そこに神さまはおられます。そこでさんびを与えてくださいます。そして、この本ができました」。―榎本保郎牧師召天15周年記念文集の末尾に、田中先生はそう記した。それからわずか14年。神はアシュラム誌編集委員会(委員長・村瀬俊夫牧師)を用いられて、同社から本書が刊行されることとなった。 内容は、1999年1月に開催された第24回年頭アシュラムにおける田中先生の「オリエンテーション」、「奨励」、「充満の時」の各奨励を収めた第1部と、「アシュラム」誌の第1面に掲載された「瞑想」100選を収めた第2部とからなる。 内容に先立ち、榎本保郎「アシュラム十の心構え」と田中恒夫「アシュラムとは」を掲げている。「このようにして、イエス様が、わたしたちを、一層、イエス様の体である教会に根ざし、教会にあって育ち、教会を愛し、教会に仕える者としてくださいますように」と、田中先生はアシュラム指針を示してこられた。 表題は、第24回年頭アシュラム主題(コロサイ2・10)そのものであるが、パウロがそうであったように、田中先生も「感謝」に溢れて、「アシュラムとは、イエス様がくださる信仰や信心を受けていくこと。それを感謝して受けていくこと。み言葉を静聴するのも私のわざではなく、イエス様の熱愛。だから感謝して受ける以外にない。“有り難うございます”と言って静聴しよう」と、朝ごとの聖書の言葉から、「イエスさまに福音される」(田中先生のお言葉)ことが勧められる。 本書を通して、神の計り知れないご愛を「キリストにおいて満たされて」、広くキリスト教界の霊的成長に資することを確信して私もまた感謝に溢れている。 (評・鵜丹谷三千代=元バプテスト教会協力牧師) |
| 週刊 『クリスチャン新聞』 2007年3月18日号=11面=掲載 | |
| 『近代日本の民衆キリスト教−初期ホーリネスの宗教学的研究』 池上良正著(東北大学出版会、2,940円税込) 本書は全6章からなり、戦前のホーリネス派(文中では「初期ホーリネス」)について宗教学の視点から述べている。著者は『悪霊と聖霊の舞台』という本で、沖縄のカリスマ派単立教会を取り上げたことのある宗教学者である。 初期ホーリネスは日本のキリスト教史研究における空白部分であると、著者は述べている。そして研究について、教義に着目した「理念研究」と実際の生活に根ざした「実態研究」があり、従来は前者が強く、後者は弱かったと述べている(序章)。 ここでは後者(実態研究)に注目している。これは興味深く、私たちに新しい視点を与える。中でも米田豊の愛児の死と神癒信仰について(第2章)は、今日の神癒信仰に重要な一石を投じる。 また、電信員伝道の機関紙「天よりの電報」(東京聖書学院図書館所蔵)に関する(初の?)まとまった論述(第3章)、さらに信徒の救いの証についての分析(第4章)は、有益な示唆に富んでいる。 問題点もあろう。序章で「理念研究」への偏りと研究史における初期ホーリネスの軽視を的確に指摘しながら、一方で初期ホーリネスの「理念研究」の不十分さに気づいていないように思われる。そのためか、聖潔派や聖霊派を概観した論述(第1章、第6章)には、正確さと新鮮味に物足りなさを感ずる。また著者は、神社参拝拒否の姿勢を「脱俗路線の矛盾」と見る(第5章)が、宗教に対する日本的ご都合主義(習俗と称して政教分離をなし崩しにする改憲案)を考えれば、これを俗事と見ることこそ、問われる。 最後に、キリスト者ではない研究者によって、このように充実したホーリネス派研究がなされていたことに深い感銘を受けた。何より本書は、ホーリネス派の自己理解について、われわれに良きチャレンジを与えるものである。 (評・原田彰久=日本基督教団宮崎清水町教会牧師) |
| 週刊 『クリスチャン新聞』 2007年3月11日号=11面=掲載 | |
| 『ウェストミンスター小教理Q&A107』 ポール・セトル著、宇田 進訳(いのちのことば社、893円税込) 宗教改革は基本的に福音の再確認による教会改革運動であったが、それには礼拝や政治のほか、教育も当然含まれていた。説教における聖書講解をはじめ聖書教理の教授は、福音の浸透とそれによる教会の再形成に不可欠であった。特にカルヴァン派伝統の教会では、信仰告白と共に教理問答(カテキズム)が量産された。教理問答は教師が問い、生徒が答えるという形式の叙述で、聖書を福音の教理として系統的に学びやすくするための工夫である。 ウェストミンスター信仰基準は元来、英国国教会の「三十九箇条」の改訂のために作成されたが、同教会では(公的には)受け入れられず、スコットランドの長老教会に伝えられ、その後世界の長老派教会において、さらに教理教育を重視する諸教会において重用されるに至った。 特に小教理問答(1648年)は全体が107問と最も簡潔な問答書で、教会はもとより、キリスト者の家庭においても子どもの信仰教育のために愛用された。ウェストミンスター信条文書は宗教改革の最終期に属しており、改革派・長老派の信仰と神学の一つの集大成と言えよう(もちろん時代と場所の制約はあるが)。 ポール・セトルの書物は、そのウェストミンスター小教理問答についての、信徒向けのコンパクトな解説書である。この教理問答は信仰編と生活編に大別されるが、本書もそれに則して2部からなり、それぞれをさらにいくつかの章に分ける。 初めに人生の目的とそのための基準(聖書)(1〜3問)、第1部で神の存在と御業、人間の罪、キリストの贖罪と聖霊による救い(第1〜5章、4〜38問)、第2部で信仰生活の基準(十戒)、神の恵みを受ける手段(み言葉・礼典・祈り)(第1〜2章、39〜107問)について、それぞれ解説する。 評者の知る限り、本書はこの教理問答についての最も簡潔な、しかも要点を得た解説書である。また、初めに訳者による教理問答自体についての説明もあり、読者にはありがたい。 (評・市川康則=神戸改革派神学校教授) |
| 週刊 『クリスチャン新聞』 2007年3月4日号=11面=掲載 | |
| 『嵐と魚ととうごまと』 伊藤顯栄著(いのちのことば社、1,800円税込) 本書はヨナ書にもとづく16篇からなる講解説教集である。著者は神奈川県横浜市にある日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団篠原教会の牧師を47年間牧会され、2004年に引退された方である。この間に中央聖書神学校教授、教団理事長などの要職を歴任され、評者は横浜在住時代、後には日本福音同盟の会議などでも親しく交わりをさせていただいた方である。 著者の「あとがき」によれば、これらは二十数年前に語られた説教テープから起こした原稿を、今回出版するにあたり書き直したものである。そのせいか文章がとても読みやすく、あたかも説教を現在聞いているような感じで、内容がすらすらと頭の中に入ってくる。 講解説教というと、とかく堅苦しく、いろいろな注解書からの知識を寄せ集めて、不消化のままごたごたと並べて終わるものが多い。評者は神学校で教えていた時代、「説教演習」の授業でそのような説教を聞かせられて、往生した経験がたくさんある。神学生だけでなく、若い牧会者の中には相変わらずそのような説教が講解説教だと思っているような人がいる。評者はそのような神学生には、「君のやった講解説教は『しなければ良かった』という後悔説教だ」と言ったことを思い出すが、この講解説教はそれとはまったく違う。 全16篇の説教は、1章に6篇、2章に2篇、3章に4篇、4章に4篇となっているが、説教の導入部がしっかりとしており、聖書のテキストから自然にその日の主題に入り、本論はいくつかのポイントに分かれており、それぞれが注解書の意見などを参考にしながら講解され、時には例話なども入れて、聴衆に分かりやすく説明されている。最後に適用も適切で実にうまい。さすがに長い牧会生活の経験の中から生み出されたものと、評者も学ぶことが多かった。本書を信徒の方々だけでなく、神学生や、若い牧会者の方々にもお勧めする。 (評・山口 昇=アレセイヤ聖書研究所所長) |
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| 週刊 『クリスチャン新聞』 2007年2月25日号=11面=掲載 | |
| 『人生を支え、導くもの』工藤信夫著 (いのちのことば社、998円税込) 「病むことのできるほどの健全さ」。本書に出てくる表題の1つである。心を病むという事は、その人が人間としての健全さをもっていることのしるしであって、病むことのない人、一見正常そうに見える人間の中に暴力的な病理性が見受けられる、と工藤氏は論じるのである。ドキッとさせられるようなフレーズが、この本にはいくつも出てくる。たとえば、「牧師には、信徒を守るという名目で、実は管理し、自分の支配下、影響下に置こうとする誘惑があるのです」。あるいは、「私の場合、信仰の質を問い、深め、広げてくれたのは、意外にも、教会からはずれた人々、教会にもなじめなかった方々であった」。このような言葉だけを並べると、工藤氏が教会への批判ばかり言っているような誤解を招く恐れがあるが、むしろ精神科医である氏は精力的に、教会において聖書の福音が生かされることのために働いてきた。そもそも30年前に氏が最初の著書である『人を知り、人を生かす』を出版したのも、日本のキリスト教に対する大きな問題意識からだった。福音がそのありのままの姿で自由にのびのびと恵みとして生かされていない現状に、氏は怒りと歯がゆさを感じ、その働きを続け、多数の書を著わしてきた。 本書は氏がその齢60を超え、後に続くキリスト者のためにメッセージを残したいという願いをもって著わされた作品である。さて、工藤氏の学びのグループの学徒の1人であった私にも大きなショックだったことだが、本書の「あとがき」に記されているように、本書の原稿が書き終えられた直後、氏に大きな悲劇が襲った。氏の長男真一君が急逝したのである。どれだけ悲痛な想いで氏はこの書が出版されるのを見たことであろうか。本書は実は、これから長い人生を歩んでいくはずだった真一君に対する思いが込められ、書かれている。さらには氏に続くキリスト者が福音によってそのありのままの姿で豊かに生かされていく願いが、本書には込められている。 (評・斉藤善樹=日本ホーリネス教団東京聖書学院教会牧師) |
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| 週刊 『クリスチャン新聞』 2007年2月18日号=11面=掲載 | |
| 『教育を考えるあなたに』 水口 洋著(いのちのことば社、1,470円税込) まさに多難な昨今の教育界を現場から見た書。 著者は現在ミッションスクールの管理職にありながら、中高教育の現場で30年のベテラン教師。心の温かさが随所に滲み出る教育論でもある。 読者は決して日本の教育の抱える問題をこの本で解決しようと考えてはならない。マクロな教育の変革を十分に認めつつも、行き先の見えない現状に悶々とする現場で、1人の教師として迷いながらも希望をもって歩む姿が本書にはある。信仰者として、一人ひとりの生徒を温かい目で見つめる信仰者の姿が浮き出される。 国家の凋落を予見したプラトンは、民主主義でもっとも良き善は自由であるが、「先生は生徒を恐れてご機嫌をとり、生徒は先生を軽蔑し、若者は年長者と対等に振舞う」と、当時の民主主義を嘆いた。アテナイを隷属化したのは、まさにこの自由であると論じた。 それから二、三百年後、戦後日本は民主主義の確立に邁進してきたが、果たしてそれが提供する自由の質を学校や家庭、社会は検証してきたのだろうか。 著者は今日の教育問題に右顧左眄する世論に警鐘を鳴らす。むしろ、一教育者としてどう行動するか、どのように「ことば」を紡ぎ出し、対話をするかを個人のレベルで問うている。 これまでの生徒や保護者との関係が通じない喪失感のゆえに、近年、ベテラン教師の退職が増えている。一方若い教師は模範とするモデル不在という、なんとも侘しい現実が現場に横たわる。いつの時代も先駆者であるべき教育者は、「堅く立って動かされることのない」教育者を目指すべきだと著者は考える。 失敗と後悔の人生の中に、信仰の成長が発見でき、それが教育の深みへの入り口だったと著者は振り返る。本質を見失わず、教育を考え、実践する者に大いに励みとなる1冊である。 (評・湯口隆司=聖望中学校・高等学校校長) |
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| 週刊 『クリスチャン新聞』 2007年2月11日号=11面=掲載 | |
| 『慰めのほとりの教会』 クリスティアン・メラー著/加藤常昭訳 教文館 B6判 2,940円税込 本書の訳者、加藤常昭先生の伝道50年を記念して説教シンポジウムが昨年の秋に代々木で開催された。その時、講師の1人として著者のクリスティアン・メラー先生も来日された。その講演に耳を傾け、ほんのひと時であったが、私も先生と会話の機会が与えられ、その気さくな人柄に触れることができた。その出逢いを思い返しつつ、本書を読ませていただいた。 書名も告げているように、「慰め」が中心モチーフとなっている。しかも、そのことが「教会」というコンテキストから見据えられている。著者は教会から離れている人々にも誠実に耳を傾けつつ、教会の本来の務めは何であるかを問い始める。そして、それらの人々も教会に集う人々も同様に切望しているのは「魂への配慮を!」ということであると見るのである。そのことの緊急性と重要性を聖書と宗教改革の信仰から新たにとらえ直そうとする神学的探求が骨格となってつづられている。 しかし、本書は神学的であると同時にきわめて実践的でもある。「魂への配慮」のために教会が果たすべき実践についての具体的提言が、骨格に血肉が伴うようにその神学的思索と結びついてちりばめられているからである。 ストレスの多い現代社会には、心に傷を負って生きる人々があふれている。教会もまたそのような社会の縮図である。このような時代にあって教会はどこまで真の慰めの場となっているのであろうか。本書はドイツと日本という状況の差を超え、神の慰めを共に問い、共に求めるところへと読む者を励ましてくれる。 6年前に翻訳出版された『慰めの共同体・教会』は「魂への配慮に生きる説教とは何か」が中心テーマであり、本書は「魂への配慮に生きる教会とは何か」が中心テーマとなっている。これら両書を併せ読み、「説教論」と「教会論」とのパースペクティヴから「魂への配慮」にかかわる諸課題に触れていくならば、そこで与えられる示唆の深みはなおさら増すにちがいない。 評)藤原導夫 日本バプテスト教会連合市川北教会牧師 『慰めのほとりの教会』クリスティアン・メラー著/加藤常昭訳 教文館 B6判 2,940円税込 |
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| 週刊 『クリスチャン新聞』 2007年2月4日号=11面=掲載 | |
| 『みことばの宝石』 マックス・ルケード著 佐藤知津子訳 (いのちのことば社 2,520円税込 四六判) 絵本『たいせつなきみ』(いのちのことば社)ですっかりおなじみのマックス・ルケードによる聖書日課。神からのメッセージを豊かに、そして温かく伝える絵本は多くのルケードファンを生んだが、本書はそんなファンはもちろんのこと、彼をよく知らない人にもお勧めだ。米キリスト教界にこれまで出版してきた彼の著作のうちから心に響くメッセージを集めた霊想書だが、身近な体験や、彼自身のもつ数多の「引き出し」から引き出された知識が常に新鮮で斬新なみことばの解説を提供してくれる。 「神が聞いておられるから、あなたは神に語りかけることができる。あなたの声は天において重要だからだ。…自分なんか相手にされないんじゃないかと心配する必要はない。…そのひとつひとつを、注意深く、熱い思いで、聞いておられる」。本書の一番最初、1月1日のメッセージは、今後の1年間を祈りとともに歩もうとする読者に希望と神への信頼を与える。愛に満ちた励ましの言葉を365日味わうことのできる本書は、神に信頼して日々を過ごしたいと願う読者の心強い味方になってくれるだろう。 【藤野多恵】 |
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| 週刊 『クリスチャン新聞』 2007年1月28日号=11面=掲載 | |
| 『J・S・バッハ 時代を超えたカントール』 川端純四郎著(日本キリスト教団出版局、3,150円) 音楽史にそびえる天才作曲家バッハといえども天から降ってきたわけはなく、バッハ一族の町音楽師としての伝統を背負って、あの時代的状況の中で登場してきた。バッハを深く知るためには彼の背景と生きた時代を理解しなければならない。本書は縦横に据えられた確かな座標軸の中でこの希有なる教会音楽家を捕らえ、その実像を見事に削り出していく。 著者はマールブルクでブルトマンに学び、東北学院大学で教鞭をとられた。日本有数のバッハ研究者であり、ご自身でもバッハのカンタータを演奏し続けてこられた。 キリスト者としては仙台北教会の信徒、オルガニストとして信仰生活を守っておられる。信仰者であるからといって論理が飛躍することはなく、最新の論文を含む膨大な資料をていねいに紹介しながら著者自身の見解を明確にしていく。「礼拝と音楽」誌に8年間にわたって連載されたものなので、高度に学術的な質を維持しつつも一般読者に理解できるやさしい文章で書かれている。読みやすい文章で最前線のバッハ研究に触れることができるのである。 本書は、バッハにとってカントールという職業は何だったのか? なぜバッハはあれほど多様な、しかも突出して高度な音楽を残し得たのか? 私たち自身が知りたいと願い、本当に納得する答えは与えられずにきた問題に正面から向き合う。後半に向かって読者はこの議論とバッハその人に強烈に引き込まれていくのを感じるだろう。壮大なる結論が提示される時には戦慄すら覚えるのだが、それはぜひご自分で体験していただきたい。ドイツの歴史や社会を民衆から見る鋭い視点、そしてバッハの音楽の底流を流れるコラールについての言及は、読者の目を大きく広げるだろう。 読了後に気づかされるのは、著者自身がバッハを通してご自分の生き方と向き合っていたことであり、読者もまたそうせずにはおれないということだ。バッハを愛するすべての人に心からお勧めする。 (評・小栗 献=日本基督教団神戸聖愛教会牧師) |
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| 週刊 『クリスチャン新聞』 2007年1月7・14日号=15面=掲載 | |
| 『そこが知りたいSDA 57のQ&A』 白石 尚著(福音社、840円税込) 旧約聖書の律法どおり第7日(土曜日)を安息日として守り、日曜日ではなく土曜日に礼拝をするセブンスデー・アドベンチスト教会(SDA)は、その正統性が疑われてきた。日本では半ば異端視すらされていたが、本書はそうしたキリスト教界で投げかけられる疑問や批判に答えるために書かれた。 その背景に「初期の指導者の中には、なによりも律法への服従を強調し、安息日遵守が救いの条件であるかのごとく説く」者もいたというような過去の問題を率直に認め、その反省にたって他教派に対する批判的な態度を改めるなどSDA自身が変化したこと、米国で福音主義の指導者やルーテル世界連盟などとの対話が進み、SDAはエホバの証人やモルモン教のような異端とは違い、イエス・キリストを信じる信仰による義認という福音的キリスト教の救済観を共有しているとの認識が広まってきたことなどが挙げられる。 本書はそうしたSDA信仰の正統性をめぐる近年の議論や、SDA教会が第7日安息日に神を礼拝する理由、霊魂不滅ではなく条件的不死を信じる理由などを簡潔に説明する。特にSDAが「現代の預言者」と呼ぶエレン・G・ホワイトの存在や言説が、現在のSDAでどうとらえられているかの解説は重要だ。「第7日安息日を守るか否かが終末の時代に真の教会を見分ける試金石である」という彼女の言葉のゆえに、日曜に礼拝を守る諸教派は理論的に「真の教会ではない」ことになるからだ。本書ではこの発言への直接の言及はないが、かつてSDAが他教派に排他的だったことには法律で「主の日(日曜)」を「宗教的礼拝の日」と定めるような19世紀の米国社会で迫害を受けた歴史的背景があったこと、現代のSDAではホワイトを絶対視していないことなどが分かる。 SDAの特色ある聖書解釈を受け入れるかは別として、本書の内容は対話の糸口となるだろう。 (評・根田祥一=本紙編集顧問) |
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