
| 週刊 『クリスチャン新聞』 2006年12月24・31日号=15面=掲載 | |
| 『講座 日本のキリスト教芸術2 美術・建築』 編集責任/神田健次 (日本キリスト教団出版局、B6判、3,150円税込) 本書は、キリスト教美術について5篇の論文と2篇のエッセイ、教会建築・教会工芸について6篇の論文と3篇のエッセイを収録。キリスト教の伝来と共に日本に入ってきた美術・建築様式は、その華麗さによって多くの日本人を魅了し、強い影響を与えてきた。 「エキュメニカルな構成であること」「各領域の現在の成果が、歴史的背景と共にまとめられること」「東アジアの文化、地域の文化のインカルチュレイション(文化内開花)の視点をもつこと」「平和・人権・環境の視点をもつこと」「日本の教会の霊性論、礼拝論への貢献を考慮すること」などに留意し、キリスト教美術、教会建築のこれまでの成果が分かりやすくまとめられている。 「本書が、日本という環境の中で誠実に生き苦闘し、喜びをもって信仰を表現し、誠心誠意神を証しする芸術活動を展開してきた人々の証言となり、神の導きの軌跡を表すものとなることを、心から願っている」(本文より) 絵画では藤田嗣治、岸田劉生、山下りん、船越保武、田中忠夫、小磯良平、建築家では丹下健三、岩井要、奈良信などクリスチャンの芸術家としてよく知られる作家に加え、意外な作家がクリスチャンとして登場することに驚く読者も多いのでは。 「…今日、美術作品が教会に寄与しうる力をあらためて検討すべき局面を迎えてはいないだろうか。日常という実存の暗闇、苦悩の夜を生きる者に対し、美術作品が実存性をメディアとしてよろこびを訴え、共同体の『場』への行動参加を呼びかけうることは、わが国の教会としてあらためて検討すべき課題であろう」(本文より) 日本の芸術界で先駆的役割を果たしてきたクリスチャンたちの軌跡を検証し、これからの音楽・美術・建築・文学の各領域から、新しい展望を提示する。 芸術に関する専門家のみならず、芸術・美を愛するすべての人に、お勧めの1冊。 (評・井上達夫=画家、本紙記者) |
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| 週刊 『クリスチャン新聞』 2006年12月17日号=11面=掲載 | |
| 『まんがキリスト教の歴史・前篇』 樋口 雅一著(フォレスト・ブックス、1,680円) 私事で恐縮だが、神学生時代に中世キリスト教史を学ぶためまず手にしたのはウンベルト・エーコ『薔薇の名前』、それも映画のほうであった。それを見てホイジンガも読む気になったものである。映画にせよマンガにせよ、私にとって視覚的情報は学びの助けである。 『まんがキリスト教の歴史』、これは待望の本である。歴史はマンガの題材になりやすいのか、それともマンガにせねば読まれないからなのか、ともかく実に豊富な種類の歴史マンガものが出版されているのだが、キリスト教史に関してはあまりない。いや一般の出版社からのものはあるのだが、キリスト教出版社からの、それも日本人の手によるものはほとんど見ない。そういう意味でこの本はマンガ・キリスト教史を欲している人々にとって待望の本である。 早速この本をキリスト教史に関心がありそうな人々に渡したところ、好評を得た。それゆえ、キリスト教史に関心がありながらも触れられなかった人々にとって、格好の入り口となるに違いない。 もっともマンガ化すれば誰でも読むというわけではない。関心がなければ読まない。それゆえキリスト教史を学ぶ意義を説く必要がある。その過程でこの本の存在意義は大きい。 作者は『まんが聖書物語』の樋口雅一氏であるから、その続編と位置づけられるだろう。人物中心の描き方は歴史描写にふさわしいだろうし、第一わかりやすい。迫害下で最後までキリストに忠実だったため殉教していくポリュカルポスの、気負っていない表情が実にいい。教皇レオとカール大帝の目つきに、双方の思惑によって中世の教会と国家体制が形成されていく様子が表されている。十字軍には、聖地防衛という大義名分とは裏腹に、利権に漁りついている人間たちの欲望がよく見えて、現代の教訓となる。続編が待ち遠しいところである。 なお個人的には、アタナシウス、グレゴリウス、ヤン・フスやウイクリフも漫画化してほしかったが、それは今後の働きに期待したい。 (評・大杉至=日本同盟基督教団伊那聖書教会牧師) |
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| 週刊 『クリスチャン新聞』 2006年12月10日号=11面=掲載 | |
| 『たった一度の人生だから』 星野富弘・日野原重明共著 (フォレストブックス、1,260円税込) 94歳の現役ドクター日野原重明氏と、今年還暦を迎えられた癒しの詩画作家、星野富弘氏の珠玉の対談『たった一度の人生だから』を手にし、まず表紙の挿絵と、帯を飾るお2人の明るい笑顔に魅せられました。この表紙は本の内容にぴったりです。 読み始めて更にびっくりすることは、富弘美術館での出会いから始まる、お2人の何とも軽妙なユーモアの応酬です。日野原氏は若き日、結核で大学を1年休学。20代の若者にはとてもつらい試練を通られました。富弘氏は待望の体育教員1年目に事故に遭い、動かせるのは首から上のみとなり、以来9年間もの病院生活、37年の車いす生活の試練に耐えておられます。 というのに、対談の内容は春の花園、秋の山の彩りを見る豊かさです。富弘氏は美術館の玄関で日野原氏からの温かいハグ(抱擁)のあいさつを受けると、「あのう私、男の方とは初めてなんで、ドキドキしました」のユーモアが飛び出します。対談は終始こうした明るさの中で試練克服の示唆と工夫を与えてくれます。さすがに老練な医師と、試練を乗り越え、常人の及びがたい富弘芸術を切り開かれたお2人の対談には引き込まれます。 日野原氏の「私たちの人生というのは、マラソンの折り返しよりもサッカーの前半と後半にちょっと似ている」は味わい深く、また富弘氏の「私は文章を書く時には、いつもこの聖書の言葉を思って書きます。『愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。…』これが私の文章の根幹です」。富弘芸術の源泉はこの愛なんだと知りました。 読後感は実に爽やか、頁数も絶妙。現代人は忙しすぎて厚い本は手にしません。活字の大きさ、行間の広さは高齢者にも最適です。美しい詩画と写真の数々、そして何よりも心温まるお2人からの愛のメッセージ。ぜひ、あの人にもこの人にも読んでほしい1冊です。 (評・吉持 章=日本同盟基督教団平和台恵教会牧師) |
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| 週刊 『クリスチャン新聞』 2006年12月3日号=11面=掲載 | |
| 『ピューリタン』 大木英夫著(聖学院大学出版会、2,100円税込) かつて中央公論新書の1冊として出版されたもの(1968年初版、1972年第2版)で、版元を変えて再版された。著者の博士論文『ピューリタニズムの倫理思想』を一般向けに書いたもので、当時、日本の一般社会に多くの読者を獲得した名著であった。内容は16、17世紀のイギリスとアメリカのピューリタン思想、わけてもその後の西欧近代化を導く「精神構造」の形成史である。 しかし著者の意図は単に契約思想を中核にもつ過去のピューリタン思想が中世から近代へ移行させた原動力である、と叙述するにとどまらず、戦後日本の価値の転換がこの「近代化の精神」によって導かれるべきだとの主張にある。序章と終章にそのことがよくまとめられている。 まず、近代の開始が15世紀イタリア・ルネサンスではなく、宗教改革わけても17世紀イギリス・ピューリタニズムにあるとの見方。これはトレルチやヴェーバーの見方の延長線にある。 次に近代化イコール非宗教化という先入観への反対、むしろそこにはある種の宗教的要素が無視できないとの主張。それを個人化、契約化、歴史化と呼んで世俗化の中でも生き残るものだ、という興味深い考察をする。本書出版から40年たった。果たして日本の近代化は成功したか。 近代化の人間学的様相は<個人化>であり、社会学的様相は<契約化>であると著者は説くのであるが、その世俗版はリベラリズムと呼ばれる。だが、今日の日本にはその負の面が明白に現れている。つまり、個人主義からミーイズムへ、契約から競争主義の導入ついには無慈悲なマネーゲームの隆盛へと。 もっともそうなってしまう理由はピューリタニズムという聖書的な基礎がないからだ、と応えることもできるであろう。とするならば、やはりキリスト教の伝道抜きには“ピューリタン的な近代化”はありえない、ということになるのであろうか。 (評・稲垣久和=東京基督教大学教授) |
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| 週刊 『クリスチャン新聞』 2006年11月26日号=11面=掲載 | |
| 『神なきところに神を見る』 森田雄三著(教文館、1,890円税込) 著者の森田雄三郎は、京都大学哲学科に学び、同志社大学商学部宗教主任としてキリスト教思想の研究に生涯を捧げた現代の碩学である。研究領域は現代神学を中心にキリスト教思想全般、ユダヤ教、イスラム、仏教と多岐にわたり、その博学と堅牢な論理は他の追随を許さない。先に遺稿集の第1巻として神学論文集『現代神学はどこに行くか』(教文館)が出版され、本書はその続編としてエッセイなど一般向けの文章を収載している。 評者は大学院時代に著者の講義を受けたが、あまりの知識の量に圧倒されて消化しきれず、「この講義が分かるようになりたい」と心底思ったものであった。それが本書では、実に読みやすく分かりやすくまとめられている。 内容は、@NHK「こころの時代」のインタビュー「神なきところに神を見る」(本書の題名はここから取られている)、A朝日カルチャー・センターでキリスト教の暦を手がかりに信仰論・宗教論を分かりやすく解説した「キリスト教の四季」、B同志社大学チャペル・アワーでの奨励、C新島襄と同志社の精神について語る奨励の4部からなっている。一人の信徒として自らの信仰に忠実でありつつ、広く宗教一般から学んだ洞察を加えてキリスト教の本質を理解し、他者に伝えていく取り組みである。著者の真理に対する誠実さに裏打ちされた、格好のキリスト教入門書ともなっている。 随所に見られるユダヤ教の歴史に対するキリスト者としての謙虚な自己批判、仏教やイスラムについての深い理解と対話の姿勢など、現代のキリスト者が取り組むべき課題に明瞭な光を与えてくれる書でもある。キリスト教を真面目に理解したい大人の人々への伝道の手段として用いるのも良い。キリスト者が自分の信仰を見つめなおし、深めていくためにも良い導き手となるだろう。本書を読んだ後、さらに論文集にも手を伸ばす人が出てくることを期待したい。 (記・金井由嗣=関西聖書神学校舎監) |
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| 週刊 『クリスチャン新聞』 2006年11月19日号=11面=掲載 | |
| 『スピリチュアリティー 成長への道』 リチャード・J・フォスター著、中島修平訳 (日本基督教団出版局、3,150円税込) 1983年に出版された本書は、現在では英語圏だけでなく、約15か国語に翻訳。米クリスチャニティー・トゥデイ誌は「クリスチャンの霊性を取り扱う現代の本としては最高峰」と評す。 著者は、聖書を絶対的な根拠、その教えを土台とし、日常生活の中で体験された信仰の先駆者たちの洞察や知恵から、霊性が深まり構築されていく旅の道筋などを、現代の私たちに分かりやすく自身の体験と重ね合わせて語る。例えば「霊的訓練そのものがクリスチャンの霊性を成熟させるものではない」と言明する。霊的訓練を意志の力で自分自身に課し続けたとしても、人格の中に深く染み込んでいる罪を取り除くことはできないし、人格の内面の霊を変えることもできない(17ページ)。内面の変革は、あくまで「神からの贈り物」であり、神の恵みとして受ける「賜物」なのである。 では、霊的訓練の役割とは何か。著者は、「神の恵みを受け取るための霊的訓練が、聖霊が用いる手段として与えられている」と説明する。霊的訓練は、神が私たちの人格の深みに変革をもたらす場所に導く手段なのである。ゆえに、霊的訓練を「訓練された恵みの道」と呼び、特にこの本で取り扱われている古典的霊的訓練(体験的キリスト教にとって中心的な訓練)によって、初めて真に霊的に成熟する道を発見することができると言う。この道において、信仰の旅人である私たちは、喜び、平安、更に深く神と交わる霊のいのちの豊かさを体験できるようになる。 著者は、古典的霊的訓練を、内なる訓練(瞑想、祈り、断食、学習)、外なる訓練(単純、独居、服従、奉仕)、共同体における訓練(告白、礼拝、導き、祝賀)という3つの側面から説明する。ここでも、聖霊が内的変革をもたらすため用いられる3つの訓練が、互いにどう影響し合っているか、という大切なつながりについて明瞭に説明する。 本書を通し、心の中で深く生ける神との交わりに触れられ、喜びと心の自由さから、主と他者に仕える者へと更に変えられていくことだろう。 (評・鈴木 茂=保守バプテスト同盟仙台聖書バプテスト教会牧師) |
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| 週刊 『クリスチャン新聞』 2006年11月12日号=11面=掲載 | |
| 『命の登録台帳 エフェソ書第1章 上』 ジャン・カルヴァン著、アジア・カルヴァン学会編訳 (キリスト新聞社、2,940円税込) カルヴァンの『キリスト教綱要』、聖書注解、神学論著や手紙、諸規定に及ぶまで、今まで「邦訳によって」多くの恩恵を蒙ってこれたことは、ラテン語やフランス語など「原語に疎い者、それでいて、なおカルヴァンに興味と関心を持ち、学びたい者にとって」本当に有り難いことであった。 しかし、邦訳によって受ける恩恵が彼の説教にまで及ぶことは甚だ少なかった。カルヴァンの説教が2千年以上も残っていることからすれば、その邦訳は微少に止まっていたからである。 そういう状況の中での、今回の邦訳説教集の出版である。とは言え、エフェソ書第1章前半の説教4つが収められているだけで、全体からすれば、巨岩のひとかけらということになる。それでも、読者にとってうれしい限りである。 序文には書名「命の登録台帳」の説明があり、巻末には16世紀のフランス語やカルヴァンの語りの特色への言及があり、語彙集がある。フランス語のわかる読者には親切な配慮である。 そして本文では、左頁にフランス語原文、右頁に邦訳、更に下段には注記がある。こういう形式に関して「読者という試験官に採点をゆだねる」と言われるが、この「読者」は(原文と翻訳の照合という点からすれば)その道の専門家に限られよう。学生時代、単位取得のためにだけしかフランス語を学ばなかった評者などではとても歯がたたないし、一般の読者には猫に小判かも。 それでも、そういう者たちが本書の読者から決して排除されるわけではない。通訳付きの説教を聞いていると思えば良いからであり、邦訳でじっくりと味わうことができるからである。学内や教会内で、フランス語のわかる指導者が得られるなら、好適の学びのテキストにもなろう。 編者はアジア・カルヴァン学会となっているが、巻末に担当者たちの紹介がある。その御労に感謝したい。同時に「下巻」の刊行を待望する。 (評・石井正治郎 日本キリスト改革派教会白石契約伝道所前宣教教師) |
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| 週刊 『クリスチャン新聞』 2006年11月5日号=11面=掲載 | |
| 『日本メソヂスト教会史研』 澤田泰紳、土肥昭夫編(日本基督教団出版局、6,720円税込) 日本メソヂスト教会に関する本格的な研究書である。著者、澤田泰紳氏は日本キリスト教団教職者として諸教会で奉仕し、山梨英和学院で宗教主任、教授として活躍して、4年前、召された方。恩師、土肥昭夫氏、同夫人の尽力により、9編が1書に編まれ、澤田、遠藤(澤田夫人の実家)両ご家庭の祈りと支えを軸にしてこの書物は生まれた。 本書は2つの役割を果たす。日本メソヂスト教会史としての役割。1907年、アメリカ・メソヂスト監督教会、カナダ・メソヂスト教会、南メソヂスト監督教会の3派が合同して日本メソヂスト教会が誕生した。来年は創立100周年の記念の年。24年もかかった合同の歴史的変遷を、内外の膨大な資料から精査しつつ鋭く分析し、その特質と課題を浮き彫りにした「記念碑的研究」である。 人物、教会に関する研究も貴重である。カナダ・メソヂストの宣教師イビーとキリスト教理解や、山梨伝道を例にメソジスト独自のサーキット(方区)方式を論じ、人間的つながりを重視する日本人の「むら社会」意識と、メソジストの伝統である巡回制がいかにかかわるかを示す。第2代監督で、静岡英和などの学園、阿佐ヶ谷、静岡ほかの教会に貢献した平岩愃保、非戦論で注目される白石喜之助を論じる。市川教会を「明治期の地方農村における教会自給」から考察する。海外教派母体の「包括型」である問題点を指摘しつつも、自給態勢の苦闘を敬愛の眼差しで見る。『護教』ほかの出版物を解説する。 第2の役割は、メソジスト教会史研究の枠を越え、「教会史」を学ぶ基本線を教示する点にある。関連資料を可能な限り集め、徹底した分析を加え、より正確なテーゼを引き出す。本書を読みながら、教会史研究に際して心得るべき基本的な方法を習得できる。熟達した手ほどきに従い、時代的状況、教会、人物について、各自の学びを続けて遺された教会史研究の役割を受け継ぐ。本格的な研究書は、そのようにして生き続けていく。 (評・岩本助成 日本フリー・メソジスト西田辺伝道所牧師、日本ウェスレー・メソジスト学会前会長) |
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| 週刊 『クリスチャン新聞』 2006年10月29日号=11面=掲載 | |
| 『人は無理数で生きる』田上昌賢著 (アイシーメディックス、1,260円税込) 『人は無理数で生きる』の副題に「企業と人間の秘められた願望」とあるように、企業とは何か、人間とは何かを追求しながら、ビジネスマンが仕事をする上で、最も大切なことは「黄金律」の世界観を知り、それを実践にあるとするところに本書の結論がある。「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」(マタイ福音書7・12)、すなわち、「自分のように他者を扱え」ということにほかならない。人生を生きるにも、企業を経営するにも、国家を統治するにも、その基本は、その人間関係の中に生きることであり、その極意は黄金律にあることを強調している。 黄金律を実践する時に、読者が政治家であれば、最高の政治家になれる。経営者であれば、最高の経営者になれる。セールスマンであれば、最高のセールスマンになれる。また、読者が親であれば、最高の親になれると教えている。 書名の「無理数」とは、永遠に割切れない数字であり、「黄金律」を「黄金率」と対比し、同じことの繰り返しにならず、しかも最も美しくエネルギーを感じるものと比較している。黄金率によって製作されているミロのヴィーナス、ギリシャのパルテノン神殿、パリの凱旋門などは、なぜ美しくエネルギーを感じるのか。黄金率すなわち無理数からなっているからであると述べている。「人は無理数で生きる」とは、黄金律を実践することにほかならない。そこに人生成功の秘訣がある。 本書は、巷に出回っている小手先の自己啓発書や、ノウハウ本とは本質的に異なっている。人間が真に幸福になり、成功するための秘訣が、聖書の黄金律の実践にあることを指し示し、しかもキリスト教用語や、宗教的な用語を一切使用せずに、聖書の真理を伝えているので、未信者、求道者の人たちへの伝道用にも最適である。人間の幸福と成功を願うすべての人々に推薦したい。特に企業経営者、ビジネスマン、専門職の方々には、必読の1冊である。 (評・市村和夫=インターナショナルVIPクラブ 代表役員) |
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| 週刊 『クリスチャン新聞』 2006年10月15日号=11面=掲載 | |
| 『測り知れないキリストの富』 ジェリー・ブリッジス著、村瀬俊夫・横田いづみ共訳 (日本長老教会文書出版委員会、1,680円税込) 著者であるジェリー・ブリッジズ氏とは、アメリカで初めてお会いして以来、親しくさせていただいております。『恵みにおける訓練』を読み、また来日し講演していただく機会があり、今回の『測り知れないキリストの富』の日本語での出版を心待ちにしていました。 日本のクリスチャンの数が1%以下だと久しく言われ続けてきました。大衆伝道に始まり、教会でも様々な伝道のアプローチが試みられてきました。 しかし、伝道の方策もさることながら、本書が私たちに突きつけているのは、福音から「測り知れないキリストの富」を掘り起こす大切さです。クリスチャンが福音の豊かさを真に味わい、福音によって歩み、それを喜びとともに分かち合うなら、日本は変わるでしょう。読み終えて、もっと福音を深く理解したいという渇きが生まれました。 著者が理解しようとする課題は、不思議と共感できます。それは、著者が自分に正直に問いかけたからではないでしょうか。この意味で、信仰の初心者と長年の信者それぞれに得るものがあるように思えます。 自分でさらに学ぼうとするのなら、著者のこの「問いかけ」は実に有益です。その一つ、著者が言う「すばらしい交換」によって、キリストの完全な義が自分のものになるという確信は、私の信仰を刷新してくれました。自分の義を全くないものと考え、神の前で、キリストの完全な歩みがあたかも私のものであるかようにみなされます。長年、頭で理解していたものがようやく心に響いてきました。 もう一つは14章で、霊のみならず肉体の復活、さらに「私たちの帰郷」が取り上げられていたことです。肉体のからだの回復と私たちを迎える親しい人々との絆の復活が大胆に語られています。永遠の命を私たち日本人にも魅力あるものに変えてくれたように思います。 「私たちが福音の終着駅」、つまり福音の流れを止める者にならない、という最後の著者の挑戦を、私自身しっかりと受け止めたいと思います。 (評・楠田高久=国際ナビゲーター・スタッフ) |
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| 週刊 『クリスチャン新聞』 2006年10月8日号=11面=掲載 | |
| 『アメリカのキリスト教がわかる』 大宮有博著(キリスト新聞社、2,625円税込) 「ブッシュ本」と呼ばれる本が数多くある中で、本書はアメリカ・キリスト教史を概観しつつ、今のアメリカの政治政策までも理解しようと試みられている。著者の大宮有博氏は、アメリカ留学中に9・11テロを経験している。つまり、その視点は近年のアメリカ情勢を内側から見据えたものである。 本書は、初心者には分かりづらいアメリカのキリスト教の背景をコンパクトにまとめている。アメリカのキリスト教史はわずか400年ほどのものだが、ヨーロッパからもたらされた様々な教派が新天地で複雑に絡み合いながら発展してきたので、研究者でも整理するのが大変だ。しかも日本語で書かれた参考書が少ないので、学ぶのに苦労する分野である。そのような意味で本書はアメリカのキリスト教史に関心を持つ者にとって必須のガイドブックとなるだろう。 マイノリティーのキリスト教文化について丁寧に解説している点も評価できる。アメリカのキリスト教諸教派は日本のキリスト教にも多くの影響を与えているので、我が国のキリスト教の背景を理解するための参考にもなる。 ただし、「究極のブッシュ本」という言葉につられて本書を買った、キリスト教に不案内な読者は、肩透かしを食った気になるかもしれない。具体的にブッシュを扱った個所は最後の1章だけで、キリスト教の諸教派についてある程度の知識をもっていない読者にはところどころ専門的で難しく感じる個所があると思う。 本書の中で著者は、「ブッシュの政策を左右しているキリスト教は『宗教右派』『ネオコン』というキリスト教の一部だけではなく、アメリカのキリスト教全体であることも分かってくるはずである」と書いている。しかし、むしろ本書を通読して教えられることは、アメリカのキリスト教はけっしてブッシュの神学1本に集約されるものではなく、様々な主張をもつ教派と、それを担う多種多様な社会階層の人々によって成り立っているのだという事実である。 (評・渡辺 聡=バプ連盟・東京バプテスト教会ミニストリー牧師) |
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| 週刊 『クリスチャン新聞』 2006年10月1日号=11面=掲載 | |
| 『チョット聞けない男女のお・は・な・し』 水谷 潔著(いのちのことば社、1,050円税込) 図書紹介をしようにも、こんな題名だと人前で発音するのに照れてしまう私だが、それでもこの本はなんとしても若者に読ませたい1冊だ。水谷先生の自らを捨てた(?)ような笑えるエピソードやコメントの数々に、中高生たちはきっと引き込まれて、聖書の語る性の本質に納得してくれるに違いないから。そして性についての聖書の世界観は、相当率直に具体的に語らないと、若者たちにはまったく共感できないであろうから。 大学生伝道をしていて痛感するのは、学生が教会で奉仕を熱心にしていても、堅実にクリスチャンとして成長しているように見えても、彼らの恋愛や性についての価値観は悲しくなるほどに世的なことがままあること。大学生キャンプではじめてクリスチャンとしての性のとらえ方について教えられても、もはや手遅れであることが多い。高校生伝道に携わっている人たちに聞くと、高校時代でも手遅れだと感じるそうだから、やはり中学生の時にはある程度リアルに聖書的な男女のあり方を伝えるべきなのではないかと思う。さらに小学生の時には(リアルに話さないまでも)「聖書も性について言い分を持っている!」ということをはっきり教会で繰り返し語るべきだ。 この本は、そんな必要をわかってはいても説明することばをもたない大人のために、助け舟をたくさん出してくれる。最終章のケーススタディは、コントとしてもおもしろく、このような会話を必要としている若者たちの現状を洞察している著者の知恵に満ちた問題提起である。教会の若者にはまずはこの章を教会の隅で読ませてみてはどうだろうか。読みふけったのちに、きっとこの本の最初のページを繰り始めるだろう。 教会に集っている子どもや若者が、今後熾烈な性的誘惑にさらされることは間違いない。私たちに上手に説明する力がなくても、与えられているこのような書物を最大限に用いて、キリストに従う道を声を大にして励まし続けていきたい。 (評・安藤理恵子=キリスト者学生会〔KGK〕主事) |
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| 週刊 『クリスチャン新聞』 2006年9月24日号=11面=掲載 | |
| 『プロテスタント教理史』 渡辺信夫著(キリスト新聞社、4,830円税込) 日本はプロテスタント教理史の本に恵まれていない。O・W・ハイックの教理史の上巻『キリスト教思想史−古代教会より宗教改革まで』はあるが、それ以後を扱う下巻の和訳はない。R・ゼーベルクの『教理史要綱』は古代教会、中世、宗教改革期の3部構成となる。しかし本書は、宗教改革後、今日まで過去500年の諸信仰告白的文書、義認と聖化の理解や教会と国家の関係理解、他教派・他の立場とのかかわりのあり方など、教理の歴史を概観する貴重な1冊である。著者は『キリスト教網要』の訳者、東京告白教会の牧師として著名な渡辺信夫氏。日本キリスト教会神学校で1970年から引退までの二十数年間、手を加え続けた講義録が本書の土台だ。本書の本文はインターネット上で公開されている。偶然発見して密かに愛読している人も多いだろう。 渡辺氏は卓越した語学力により膨大な洋書文献に明るい。ドイツの教理史研究家にルター派が多いというが、氏自らは改革派的信念で本書を論じる。ルター派の命である「律法と福音」の対比を失敗と呼び(72頁)、ルター派のアウグスブルク信仰告白の1部を事実誤認とする(95頁)など、時に挑戦的である。しかし自派の検討も冷静で、契約神学の強調は改革派神学の予定論的傾向の背面的抑制であり(347頁)、ドルトレヒト会議後に改革派神学主要点を要約したというTULIPの頭文字は、実は学問的に全く無価値であるとする(330頁)。ルター派から指摘されるシロギスムス・プラクティクスの危険性も真摯に受けとめる(377頁)。氏の願いは正しい宗教改革の伝統の、今への適応なのである。 本書は今日的課題を整理する。例えばエキュメニカルとエヴァンジェリカルの流れの要約は秀逸である。同時に抵抗権に大きな関心をもつ。右傾化する今日、ツヴィングリからエラストゥス、カルヴァンからド・ベーズという政教関係論の流れに読者の注意を引きつける。本書は、かつて海軍学徒兵として出陣した反省と懺悔の思いをもつ著者の、告白的抵抗なのだ。 (評・正木牧人=神戸ルーテル神学校教務・助教授) |
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| 週刊 『クリスチャン新聞』 2006年9月17日号=11面=掲載 | |
| 『美と真実 −近代日本の美術とキリスト教ー』 竹中正夫著(新教出版社、3,990円税込) 著者はこの本を書くにあたり「大切なことは、できるだけ推量を避け、実証的な資料検証を経て吟味してゆく姿勢である。…あくまでも一人ひとりの美術家が内面的にキリスト教といかにかかわったかを実証的に記述することが肝要である」と述べておられます。 キリスト教信仰をもっていた画家であっても、そのことには全く触れずに解説する本がある一方、美術的な評価より信仰そのものを強調し過ぎる評論もあります。その両極端に走ることなく、一人ひとりを丁寧に取り上げているのが、この本の最大の特徴です。取り上げている美術家は、実に51人。日本の近代美術に多大な影響を及ぼした美術家の中に、キリスト教にかかわった多くの偉大な先輩がいることは、大いなる励ましを受けました。 著者は、美術家の私記などを丹念に取り上げて行く中で、美とは何か、創作とは何かを問うています。たとえば中村彜の解説の中では、次のように引用。「より真実であるだけより美しい。愛が無限であるように美と真実は無限である」「絵は真の宗教家と等しく、不言の中に人を化する不思議な魅力でなければならない。挨拶なしに人の精神の王座に闖入して来るようでなくては本物でない。…せめて来るべき時代を、真と美との勝利の時代を信じて居ることだけでも、せめて作品によって示したい…」。キリスト者の美術家の在り方を通して、本来のあるべき美術の意味や目的を私たちに教えてくれます。 巻末には、現代におけるキリスト教美術の課題として、田中忠雄のことばを紹介します。「今日のキリスト教は、人間の『救い』に役立つ働きをしているかどうか、いまきびしく問いかけられている。…現代の宗教美術は、宗教がになう『救い』という課題に対して、作品によって答えるべきである」。この大いなる課題に応えていくためにこそ、本書が諸教会や信徒の方々のうちにより多く用いられていくことを期待します。 (評・町田俊之 バイブル・アンド・アート ミニストリーズ代表) |
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| 週刊 『クリスチャン新聞』 2006年9月10日号=11面=掲載 | |
| 『ルカ福音書講解 1巻:1〜2章』 榊原康夫著(教文館、3,780円税込) 日本キリスト改革派東京恩寵教会で34年間牧師として奉仕された榊原康夫名誉牧師が引退前に説教したルカ福音書講解説教が、この度教文館から全6巻で出版される運びとなった。 1巻目の本書には、1994年6月から翌95年3月にかけてルカ福音書1、2章から、恩寵教会の説教壇で語られた30の説教が収められている。マタイ福音書、ヨハネ福音書、使徒の働き、エペソ人への手紙、コリント人への第一の手紙と既に氏の講解説教は出版されており、愛読者も少なくないことと思う。また、神学校、信徒学校での教鞭をはじめ、多数の著書から著者の学識の深さと広さは十分に知られているので、ここで繰り返す必要はないことと思う。 本書に収録されている説教は、説教録音テープから原稿起こししたもので、説教者の語り癖までが忠実に復元されていると著者自身がまえがきに認めるほどのものである。説教学などで言う「適用」がほとんどない講解説教の形を取っているが、本書では説教後の祈りがそのまま書き留められている。榊原康夫氏の講解説教の愛読者の期待を裏切らない従来の氏の説教と一言で言えるが、長い牧会生活の年輪を感じさせる講解説教になっていると感じた。 1つには、著者が緑内障になり目を患いながら、説教と取り組んだ結果とも評者は勝手に想像しているが、説教の結論部で説教者自身の瞑想が以前にまして語られているとの印象を抱いた。説教個所の原語の言葉の意味をコンコーダンスと当時の文献を駆使して詳らかにしていく聖書釈義・講解であり説教である。 本書で取り扱っているクリスマス物語では、場合によってはロマンチックなイメージが覆されることも多々ある。個人あるいは小グループなどで聖書を学ぶには格好の参考書として活用できよう。著者は新聖書注解でルカ福音書の注解を担当しているので、本書の講解説教と比較してみるのも興味深いかもしれない。 (評・伊藤明生=東京基督教大学教授) |
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| 週刊 『クリスチャン新聞』 2006年9月3日号=11面=掲載 | |
| 『私の人生、これなに? 在日難民たちの証言』 雨宮剛・エレダル・ドーガン編(CMY基金、1,000円税込) 私たちの現実が1つではないことは、誰もが知っている。幾重にも重なった現実の様々な出来事に出くわす時、私たちはどんな態度をとるのだろうか。目をそむけ、知らないふりをし、他の方向を見てやり過ごす。まさに主イエスが語られた「よきサマリヤ人の譬」での祭司やレビ人の有様である。この『絶望の深き淵より−わたしの人生、これなに? −在日難民たちの証言』は、私たちの日本で、今この時起こり、さらにそれが今も続いている現実を顕にした書だといえる。 本書は、第1章にミャンマー(ビルマ)・イラン・トルコ国籍クルド人ら12人の在日難民の証言が記されている。毎週1人のペースで行われた聞き取り調査は、毎回2時間に及んだという。 テープに記録された未熟な日本語を、文字に起こす作業は容易ではなかったことだろう。しかし、伝えたい思いと、聞こう・理解しようとする意志が、言語や文化、時間の壁を越え、1冊の本としてこの世に出たことの意義は大きい。 ここに集められた証言は、どれも重く苦しみに満ちている。精一杯自分の置かれた現状を訴える苦しみの矛先が、日本に向けられていることに心が痛む。表題の通り「私の人生、これなに?」、「わたしは人間だ!」、その問いと叫びがくり返される。読み進めるにつれ、この現実に「私」がどう向き合うのか問われてくる。 第2章は、「日本の難民政策―その問題点」として難民にかかわり、向き合った13人の「私」の言葉が記される。そこには、「難民」とひと括りで扱う政府や行政に対し、実際の名前と人格をもった「人」とのかかわりの中で知らされ、教えられた生の出会いにより、共に生きることの意味が一人ひとりの言葉で綴られている。20ページにわたる資料も含め、260余ページのすべてに「難民」と共に生きる決意と熱い思いがあふれている書だ。この現実を知った「私」は、どう生きるのかが問われる。 (評・大島博幸=ふじみ野バプテスト教会牧師) |
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| 週刊 『クリスチャン新聞』 2006年8月27日号=11面=掲載 | |
| 『歴史の狭間を生きる』李 仁夏著 (日本キリスト教団出版局、2,310円税込) 李先生は既に2冊子にご自分の歩みを記しておられる。「戦後五十年の日本の国家を問う」(SCM、1994年)、「在日同胞の戦後史『韓国人キリスト者の歩み』」(神奈川外キ連、1995年)である。語られ問われているのは、「戦後」の「日本国家」の歴史と問題性である。この国の近代史、韓国と日本の関係史への詰問であり、その限りでの回顧であり発言である。それが今回は「歴史の狭間を生きる」自身の歩みであり、戦前にさかのぼり、生い立ち、戦い、信仰、使命に沿って、やはりこの国の社会と国家と教会への問いと呼びかけである。 先生は1925年生まれであるから1919年の3・1独立運動に直接かかわってはいない。しかし、かかわり深い在日韓国YMCAの2・8独立宣言によってつながり、ご自分の原点となっている。せっかく入学した中学校が民族系であったため閉鎖され、京都の中学に転校した先生の、尹東柱(治安維持法に問われ獄死したキリスト者)の詩との戦後の出合いは感動的である。 神学校入学、結婚、卒業、留学、帰国の間にご両親、特に父上との和解は主に在っての和解、それ以前に先生を信仰に導いた和田正教諭の民族を超える和解の模範と献身、ついに生涯の任地となった川崎での日本社会との和解と、和解が先生の一貫した使命であった。しかし、戦いでもあった。「現場の教師にはその種のいじめの問題性は見えない。日本の歴史教育では朝鮮半島との関係は…教えられていない…ある教師たちの民族的偏見は正されようがない」。これはすなわち、全日本人のことである。しかし驚くほど広い内外の人脈につながる戦い、つまり世界を舞台に戦い、主がお用いになった人である。 和解の命令から始まる現場での具体的和解の実践は、主の和解と決して同じではない。しかし、「その和解の福音のために奉仕する」のだ。「和解」に仕える和解とは、実に示唆に富んではいないか。 (評・登家勝也=日本キリスト教会横浜長老教会牧師) |
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| 週刊 『クリスチャン新聞』 2006年8月20日号=11面=掲載 | |
| 『原理主義 JEAパンフレット6』 (日本聖書同盟、700円税込) アメリカを震撼させた9・11からほぼ5年が経過した。あれから世界の様相は一変し、アフガン戦争、イラク戦争、パレスチナ情勢の緊迫と、中東ではいっこうに戦火が治まる様子がない。 そんな渦中で世間の耳目を集めたのが、アメリカのキリスト教、それも原理主義や福音派教会の動きだった。ブッシュ大統領が熱心な福音派の信徒であり、宗教右派や福音派の大勢が、星条旗を振って「ブッシュの戦争」(ウッドワード)に賛同したことが大きく報道されてきたからである。 日本福音同盟から出版された『原理主義』は、そうした動きに応えて、日本の福音主義教会が戦争と原理主義をどう見ているかを論じた、実にタイムリーな冊子である。 6人の執筆者による論考には、原理主義の聖書解釈を批判的に論じたものがあり、排他主義の危険を指摘する文もある。原理主義と福音主義の違いや、原理主義の戦争観を取り上げたものもあれば、日本で多神教を寛容とする議論があることに注目して、その性急さを指摘した論考もある。 さらに貴重なのは、9・11当時のアメリカの草の根の教会のありさまを綴った報告があって、小冊子ながら多角的に論じられるところに、このブックレットの魅力がある。 読者はこの1冊をもって原理主義とは何か、福音主義との違いがどこにあるかを大筋で理解できるだろうし、また日本福音同盟(JEA)と米国福音同盟(NEA)の、イラク戦争に対する立場の違いも知ることができる。 つい最近も、アメリカの福音派の一部や宗教右派が、イスラエル軍によるレバノン侵攻を、聖書予言の成就として歓呼しているとの報道がされた。本書はそうした原理主義的な理解が誤りであり、正しい福音信仰が平和主義であることを証することで貴重である。 福音主義教会の関係者だけでなく、広く一般の読者にも読まれることを期待したい。 (評・栗林輝夫=関西学院大学教員) |
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| 週刊 『クリスチャン新聞』 2006年8月13日号=11面=掲載 | |
| 『健全な信仰とは何か』 丸屋真也著 (いのちのことば社、1470円税込) 本書は、クリスチャン・カウンセラーとして精力的な活動をなさっている丸屋真也先生によるもので、福音理解と信仰生活の再検討を迫る書になっている。しかし、読者の胸元に剛速球を投げ込んで、のけぞらすような迫り方はしていない。言葉を選び、たんたんと投げるものの、一球一球は味わい深くじんわりと迫ってくる趣である。 まず第1章では、霊的な大人を目ざすことの大切さを説き、そのために必要なものとして、霊的な自立にはじまり、心理的自立、相互依存的な関係からの自立、経済的自立を説明する。続いて第2章では、霊的生活にまつわる誤解を扱い、第3章では、特に教会生活でつまずく様々な局面を実際的に取り上げる。また第4章、第5章では、信仰者の人間関係、とりわけ後章では牧師の人間関係の問題と対処方法についてこれまた実際的な指摘が続く。第6章では、信仰者の聖化の姿を山上の説教から学び、最終章では、霊的な大人になった信仰者が社会にいかなる影響を与えられるかを述べている。 本書の魅力は、第1に信仰者の霊的成長を全人的なものとし、霊的な面、心理的な面などの違いばかりでなく、相互に影響し合う関係にまでも踏み込んだ説明を加えていることである。牧会経験をもち、現在、教会向けの活動を中心に行っている丸屋先生ならではの具体性と説得力がある。第2に、それに関連するが、クリスチャン・カウンセリング上、非常に重要なトピックスが次々と登場し、それが丸屋先生の体験に基づいて語られていることである。「心理的不安と霊的状態の混同」などがそれである。第3に、問題点を指摘するにとどまらず、改善策を聖書に根ざしてきちんと提示していることである。第4に、コンパクトなことである。よくぞこれだけのことをこのボリュームでまとめられたと感心させられる。 今後は、この書から、続編なり、詳細な各論なりの著作が登場することを心待ちにしている。 (評・藤掛明=聖学院総合研究所カウンセリング研究センター専任講師) |
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| 週刊 『クリスチャン新聞』 2006年8月6日号=11面=掲載 | |
| 『アメリカ・キリスト教史』 森本あんり著 (新教出版社、1,785円) 現代の我が国における思想、文化、教育、経済など社会生活にかかわる多くの事柄に最も影響を与えている国の一つがアメリカだろう。1859年に日本が鎖国政策を解いて以来、様々なものが流入してきた。アメリカナイズということばがファッションや考え方の先端性を示す意味で長く使われていたのも事実である。しかし、最近はそのことば自体死語といえる。使われるときはむしろ負の要素で使われるのかもしれない。 そのアメリカの文化、思想に大きな影響を与え続けてきたのがキリスト教である。アメリカ文化の影響を色濃く受けてきた我が国は間接的にキリスト教の影響を受けてきたとも言える。 多くの日本人はキリスト教イコールアメリカの宗教というイメージではないだろうか。むろんキリスト教はアメリカ独自の宗教ではないが、今でもアメリカは世界的キリスト教大国といえる。プロテスタントが優勢であるという事実も特殊である。ヨーロッパからの移民の多くが教派的背景をもってアメリカに渡ってきたが、時とともに彼らが社会的にも経済的にも政治的にも、そして宗教的にも本国から分離自立し、独立していく。その過程に信仰覚醒運動が繰り返され、アメリカの教会、アメリカのキリスト教が形作られていった。そのような背景をもった、「アメリカ経由のキリスト教」が日本に持ち込まれたわけである。 21世紀の伝道ということばがよく使われるが、日本の教会のこれからを考える上で、私たちの教会のもっている政治、行政、習慣を検証することが必要ではないだろうか。アメリカのキリスト教からの遺産をもう一度整理する時に来ているといえる。その意味で本書は、私たちが明日の教会を模索する上で、わかりやすい資料となるだろう。 15世紀の初期の入植から、現代に至るまでが12章にコンパクトにまとめられ、駆け足でアメリカのキリスト教史を追っているが、まずは必要十分な内容と言える。さらなる資料に触れたければ、巻末の文献案内が役に立つだろう。 (評・中野晶正=クリスチャン新聞編集長) |
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| 週刊 『クリスチャン新聞』 2006年7月16日号=8面=掲載 | |
| 『断絶世代とつながるために』 ジョシュ・マクドウェル著、伊藤真澄訳 (CS成長センター、B6判、1,470円税込) このところ十代の若者による事件−−いじめ、暴力、殺人などの悲劇が、毎日のようにニュースで報道されている。今、思春期の子をもつ親たちは、クリスチャンであるなしにかかわらず、大きな不安を感じている。若者の世界に何が起こっているのだろうか、私たちの子どももこのような犯罪に巻き込まれていないだろうか、と。 本書の著者は、米国を代表する青少年伝道者であり、彼自身、両親の離婚と再婚、アルコール依存症によって崩壊した家庭に育ち、ひきこもりの体験ももつ。日本の十年先を行くと言われる米国の病む社会。その中に生きる数多くの青少年と長年にわたりつき合ってきた著者は、現代の若者をこう分析する。 1・彼らは孤独と疎外感をもち、大人との信頼関係が断ち切られていると感じており、自分が何者なのか確信がもてない。 2・彼らはポストモダン文化の影響を大きく受けており、それが、彼らの言動を親や大人たちに理解しがたいものにさせている。 3・そんな彼らに、一方的に道徳、規則、聖書的価値観を教え込む前に、まず、彼らと信頼の絆でつながる事こそ大切である。 4・そのためには、彼らの表面を見ず、その心の叫びに耳をすまし、ありのままの彼らを受容し、評価してあげる事が必要なのだ。 では、どのように若者たちとつながっていくのか。著者は本書の3章から8章までを割いて6つの重要なポイントを挙げ、日常生活に適用できる具体的な多くの提言をしてくれる。また、9章から13章では、若者たちの世界(人間関係での失望、対立、愛と性など)に入っていって信頼の絆を作るかかわりについて語っている。 アメリカと日本という文化的背景の違いはあるが、日頃の子どもとの係わり方を一つひとつ点検させられ、反省させられる格好の書である。「彼らとつながること−−若者の信仰と将来はそれにかかっている」(14章より) 評・東條優子(日本キリスト兄弟団弥生台キリスト教会牧師夫人) ご購入を希望される方は「Gospel Information」から http://www.wlpm.or.jp/ ← ご注文いただけます。 |
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| 週刊 『クリスチャン新聞』 2006年7月23日号=11面=掲載 | |
『日本の伝道』近藤勝彦著(教文館、2,100円税込) 本書は組織神学者である著者が、異なった時と場において「伝道」に言及した12の講演を収めたもので、「日本の伝道」の体系書ではない。本書全体の基礎に流れているものは、著者が「伝道のパイエティ」と呼ぶ、神学によって裏打ちされた伝道の喜びを、日本の教会の中に形成し、活性化しようとする熱意である。 残念ながら、全体として見た場合、今日の日本の教会には伝道の意欲が欠けているように思われる。日本の教会は、伝道者の「燃え尽き症候群」から発症し、「伝道したくない症候群」に進行し、今や「伝道知らない症候群」に悪化している気がする。著者は、生き生きした信仰を回復し、教会全体の姿勢として「伝道のパイエティ」を回復することの必要を訴える。 それに「神学」の果たすべき責任がある。神論、罪論、人間論、救済論、教会論、終末論…、組織神学的な基礎づけが必要である。「神学をすると冷たくなる」と敬遠され、「神学ぬきの伝道」が進められてきたが、行き詰まってしまった。「ただ信ぜよ」だけで伝道が成立しないのが現代である。著者は言う、「聖書の伝える『福音』を今に伝えるのでなければ、それは『福音』になりません」と。 日本伝道は、明治10年代と昭和20年代の各10年を除いて低迷を続けてきた。日本社会や日本人の宗教性を神学的に検証することを怠ってきたゆえだ。「福音は日本人の魂を変える力を持っている」ことを忘れてはならない。「伝道はこの時代になくてはならないもの」であり、今こそ最も必要な時だ。 神学基盤の欠如が「伝道しない教会」を生み出してきた。伝道は人間の力だけでやるものではなく、「伝道は神に用いられ、聖霊の働きを通じてはじめて可能になる」。それゆえ、伝道しない教会は神否定の教会と変わらない。「伝道のない神の国は、聖書ともキリストともかかわりのない誤った思想」なのだ。本書に刺激されて、「伝道のパイエティ」回復に意を決してもらいたい。 (評・櫻井圀郎=東京基督教大学教授) |
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| 週刊 『クリスチャン新聞』 2006年7月16日号=11面=掲載 | |
| 『キリスト教学校の形成とチャレンジ』 学校伝道研究会編(聖学院大学出版会、3990円税込) 今日、日本の教育が抱えている問題は多岐にわたり、しかも深刻です。なぜなら教育の現場は、日本社会の縮図そのものであるからです。加えて教育のあり方を変革しようとする教育行政や政治的企てへの不信感が不透明さに拍車をかけ、そこに育つ子どもたちの将来に不安を与えています。 このような状況の中に置かれたキリスト教学校には、どのような存在意味があるのでしょう。本書はこの教育の問題と真正面から向き合い、キリスト教教育の可能性について、真実かつ誠実に取り組もうとしている論文集です。 本書は3部構成で、現代におけるキリスト教学校の伝道のあり方を提示しています。第1部の学校伝道研究会の理念では、「教育が取り組むべき神学的課題」をどう設定し、学校伝道の実践とどう結びつけるかという課題の輪郭を明らかにしています。霊性についてなど興味深い議論が展開されています。 第2部の国家・社会とキリスト教学校の使命では、親の教育権の問題、教育基本法の改定の議論、愛国心をめぐる論争など、今大きな議論となっている問題を整理して、キリスト教学校が主張すべき方向性を明確に表す示唆に富んだ論文が並べられています。 第3部の学校伝道の展開では、この時代に学校伝道はどう行われているかを、現場の実践を踏まえて指し示し、「心の宗教」としてのキリスト教伝道のあり方を提示しています。 全体が神学を土台とした論考であるため、一般的には理解しにくい部分もあることが難点ではありますが、信仰と知性のバランスのとれた筆者たちによる文章は、キリスト教学校からの発信として、大変有意義なものになっています。読者はそれぞれの関心に合わせて、テーマを選んで論文に接することで、自分の抱えている問題を整理することに、大きな助けが与えられると思います。危機意識を持って読んでみてください。 (評・水口 洋=玉川聖学院中学・高等学校部長) |
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| 週刊 『クリスチャン新聞』 2006年7月9日号=11面=掲載 | |
『聖書は誰のものか』J・ペリカン著(教文館、2625円税込) この本は、著者J・ペリカンが今まで15年間、この課題を温めながら書きつづったものを1冊の本として出版したもので、聖書成立の歴史から翻訳の過程で起こった様々な問題を丁寧に細かく論じている。「聖書とは何か」を深く専門的に学びたいと思う人には必携の書である。「聖書は誰のものか」という本題が示すように、ユダヤ教、キリスト教のカトリック、オーソドクシー、プロテスタント、はたまたイスラム教までが聖書(旧約)を信仰の柱として位置づけている中で、当然、キリスト教ではキリストを巡っての聖書(旧約)再解釈が「新約聖書」であり、ユダヤ教では「タルムード」が聖書(旧約)再解釈の役割を担い続けていると、著者は理解する。 なぜ書かれた文字の聖書に再解釈が必要とされるのかという点では、聖書は文字以前に「語られる言葉」であるという著者の神学的理解があり、そういう意味では新約聖書もキリスト教徒によって再解釈され「語られた言葉」の文字化とするなら、そのオリジナルを求める翻訳作業の難しさと言うものが必然的に出て来ることになろう。 ただ、プロテスタント教会ではあまりにも聖書自体に独占的な権威を与えたため、ある聖書解釈を無批判的に絶対視して、教派間の分裂と抗争を繰り返してきた今までの歴史がある。 そこで著者は、聖書成立の歴史や翻訳過程での複雑な再解釈の違いなどを認めた上で、聖書を独占的、占有的に解釈する仕方を非難する。聖書とは聖書の翻訳や再解釈の中で、部分的な翻訳の違い、困惑、「外つ国」(本文321頁)の言葉などがあっても、不思議にも読む者の心に常にその「語りかけ」があるのは、「その神が自らを啓示しながら、なおも『絶対他者』であることを変えない神」だからである。聖書の理解と解釈が様々異なることがあっても、その「語りかけ」をそれぞれ聴くことができるなら、それは翻訳の限界を超えて聖書はすべての人に開かれたものであることを著者は訴えているのである。 (評・渡部信=日本聖書協会総主事) |
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| 週刊 『クリスチャン新聞』 2006年7月2日号=11面=掲載 | |
| 『創造と進化 付・ダーウィンの宗教観』 J・H・ブルックス著(すぐ書房、3360円税込) 本書は、科学革命とキリスト教(直訳「信仰と科学」、副題は「コペルニクスからダーウィンまで」)シリーズ全3巻最後の著作であり、ダーウィンの先駆者たち、ダーウィンその人、その後のキリスト教神学との関係に焦点が当てられている。 前2作「宇宙の秩序」「理性と信仰」で、近代科学の成立、キリスト教信仰と進化論の関係に関心がある人は、本書を含めた全3冊のタイトルを見ただけで読書欲をかき立てられるのではなかろうか。なお、本書は前2巻をたびたび引用しており、シリーズ全体を総括しつつ筆が進められている。読者は必要に応じ、前2巻を読む必要があるかもしれない。 さて、本書の題名の直訳は「進化の危機(The Crisis of Evolution)」である。翻訳題名は意訳して「創造と進化」となっている。創造か進化か?と対立的ではなく、創造と進化の関係を並列している。ここに著者、その意を汲んだ翻訳者の考え方がよく現れていると思われる。巻末に収録されている「ダーウィンの宗教観」でも述べられているように、科学(進化論)と宗教(キリスト教)の関係を対話あるいは統合というキーワードでとらえる現代神学者が増大しているという。例えば、イアン・バーバーやポーキングホーンらが該当する。本書もそのような立場で執筆されているようである。特徴であるが、各章の冒頭に学習の目標が設定され、読み進む中で、著者は考察しなさい、説明しなさい、コメントしなさい、と幾度も質問を投げかけ、読者に考えることを要求する。著者の提供する資料を吟味しながら、自分なりの考えをまとめるようにと我々に迫ってくる。創造と進化は、読むというより研究するという心構えを持つ必要がある重要なテーマなのであろう。 本書は、生物史学の初歩から説明が始められており、進化論に関する文献リストも非常に充実している。本格的にキリスト教と進化論の関係を研究するための良き参考書となるであろう。 (評・中山良男=東京基督教大学非常勤講師、日本福音キリスト教会連合筑波キリスト教会員) |
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| 週刊 『クリスチャン新聞』 2006年6月25日号=11面=掲載 | |
| 『キリスト者の完成』 ジョン・ウェスレー著、藤本 満訳・注 (イムマヌエル綜合伝道団、2100円税込) ジョン・ウェスレーの『キリスト者の完全』の新訳が出版された。ウェスレー研究者として著名な藤本満氏のすぐれた訳業が、「ウェスレー神学とメソジスト運動の解説」としても役立つ「注記」を伴い、世に問われたのである。 本書は、比較的、初期の資料を用いて、ウェスレーが40年間、メソジストの群れとともに、「聖書が示す全き愛の真理」を信じ続けた「聖書的、教会的信仰の記録」である。キリスト者の完全とは、「わたしたちの心全体が神の像、すなわち、心を作られた創造者の似姿に、造り変えられること、…心を尽くして神を愛すること、自分自身のように隣人を愛すること」(本書278頁)にほかならない。主の愛を源泉とする、わたしたちの「神と隣人へ向かう愛」を満たし続ける「へりくだった、やさしい、忍耐強い愛」を、群れの内外に渦巻く誤解、中傷、逸脱、攻撃に損なわれることなく信じ続けたウェスレーと群れの証が、各ページに躍動する。 「主の3つの祝福」を覚えた。まず、新訳がイムマヌエル綜合伝道団の60周年を記念して出版された祝福である。同伝道団は、日記と説教に続き、新訳出版を完成された。同教団に与えられた尊い使命が、本書を通して進展することを祈りたい。 祝福の第2。原文に忠実で、よくこなれた訳文と、日ごろの研究の成果を活かした注記を準備された藤本氏と、同氏を支えられた御教会や同労の方々の業を、豊かな祝福に数えたい。多くの読者が、神学思想的手引きに助けられつつ本書を読み進めるであろう。 最高の祝福は、やはり、「キリスト者の完全の真理そのもの」から来る祝福である。ウェスレーの時代だけでなく、この聖書的真理への無理解や先入観が続く。彼は人間的な完璧の達成ではなく、わたしたちをとらえて離さない神の愛を、恵みへの信仰の応答と実践の中で確信し続けた。本書を通して、恐れを追い出す完全な愛にあって生きる恵みに生かされたい。 (評・岩本助成=日本フリーメソジスト教団西田辺伝道所牧師) |
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| 週刊 『クリスチャン新聞』 2006年6月18日号=11面=掲載 | |
| 『神には栄光 人の心には喜び』 ヘレーネ・ヴェアテマン著(日本キリスト教団出版局、1470円税込) 優れたキリスト教音楽は、音楽によって聖書の言葉を語り伝えます。J・S・バッハの音楽は、合唱曲や独唱曲はもとより、オルガン曲などの歌詞を伴わない器楽曲においても、聖書の言葉を語り伝えるという点においては、他の作曲家の追随を許さない作品であると言えましょう。 本書を著したH・ヴェアテマンは、バッハが聖書の言葉の比類なき語り部であることの理由を、ルター派教会の「恵みによって」「イエス・キリストの功績ゆえに」「人が信仰を受け入れることによって」という3つの教えを礎として説き明かしています。ヴェアテマンは、ルター派教会の信仰の核であるこの3つの教えが、バッハの作品の中でどのように表現されているかを、バッハの歩みと作品の両面から具体的に述べていますので、本書は音楽愛好家にも、キリスト教音楽に馴染みがない方々にとっても、信仰の側面からバッハに親しむ良い手引き書となりましょう。 本書は、「生涯」「人柄」「信仰」「作品とその影響」の4章から成っていますが、特に「人柄」と「信仰」の項目が中心的な部分です。バッハの人間的側面を論ずることは作品研究よりも難しいと言われますが、ヴェアテマンは人柄と信仰の両面において最新の研究資料を丁寧に読み解き、具体的な楽曲分析をふまえて、人間バッハの良い面と悪い面を率直に伝えています。音楽家にとっては、バッハが神のような存在に思えることもありますが、本書を通して、バッハも私たちと同じ人間であり、悩みつつ与えられた務めに取り組んだことを知ることは、私たちにとっても大きな慰めとなることでしょう。 翻訳の労を取られた村上茂樹氏は、神学と音楽の両分野に長けておられ、平易な訳文と共に、わかりやすい訳注が記されているため、予備知識がなくても安心して読み進むことができます。バッハの信仰についてさらに詳しい内容にふれることへの願いと共に、これからもヴェアテマンの著作の翻訳が進むことを祈りつつ本書を推薦致します。 (評・渡辺善忠=日本基督教団巣鴨教会牧師 KAY合唱団指揮者) |
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| 週刊 『クリスチャン新聞』 2006年6月11日号=11面=掲載 | |
| 『心の重荷に別れを告げて 詩篇23篇の約束』 マックス・ルケード著 佐藤知津子訳 (いのちのことば社・1680円税込・四六判著) 「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」(ヨハネ1・1)。神はことばを発して世界を創造され、ことばを介してご自身を明らかにされ、ことばをもって過去、現在、未来を語られる。人はことばを通して情報を得、ことばの助けを借りて気持ちを伝え、ことばを用いて神を知っていく。ことばは私たちが生きる上で不可欠であると同時に、生活を潤す源でもある。 マックス・ルケードの本が特に英語圏において広く愛されているのは、ことばの豊かさにこだわり続ける著者の姿勢によるところが大きいのではないだろうか。『心の重荷に別れを告げて』が新たに訳され出版されたが、ことばを吟味しつつ読者一人ひとりに個人的に語りかける口調は、この本においても生きている。 詩篇23篇の約束という副題がついているが、聖書の文言を一つひとつ掘り下げて分析していく解説書ではなく、筆者がみことばを読み、黙想し、神の語りかけに耳を澄まし、読者の心の中のスクリーンに映し出すようにメッセージを描く手紙のようである。著者の関心は神の愛に信頼して安んじるよう読者に迫ることにあり、その目標達成のためには自分の弱さや欠けを暴露することも厭わない。情熱的な語り口と眼差しの温かさをベースに豊富な例話を盛り込んで解き明かされる各章を読み進むうち、本来負わなくてもいいはずの重荷を負って喘ぐばかりで、神の愛に憩いを見出し力を得て人生の旅路を進むことができなくなっていた自分に気付かされる。 冒頭の少々滑稽でオーバーな描写を人事のような暢気さで読み始めたが、最終章に進むころには背負い込んだ重荷の一つを下ろせたような晴れやかさを覚えた。読了後に表紙の写真に目が留まった。著者のメッセージを心に焼き付けるような写真だ。自分も余分な荷物に別れを告げ、未来に向かう陽の射す道を身軽な旅支度で歩んでいける、そんな気持ちになって外に出た。午後の陽の明るさに心が弾み、頬をなでる風が気持ちよかった。 評)高橋芳江 日本福音キリスト教会連合立川駅前キリスト教会牧師夫人 |
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| 週刊 『クリスチャン新聞』 2006年6月4日号=11面=掲載 | |
| 『ジョン・プラウマン談話 田舎牧師の直言』 チャールズ・H・スポルジョン著(燦葉出版社、1,575円税込) 本書は、スポルジョンがジョン・プラウマン(耕す人の意味)という田舎牧師の仮面をかぶって、教会や、洗練された会話には無縁である大衆に語りかけている異色の本です。ユーモアに満ちた格言的な表現を用いて、生きる智慧(ちえ)について述べています。 これを読んだ当時にイギリスの庶民は、一つひとつの道徳的教訓にうなずき、「この牧師が言っていることは、なんと我々にピンとくることか」と思ったことでしょう。 現在、日本において教会が大衆から遊離し、説教やキリスト教の書籍が、彼らに無縁のものと思われていることを思うとき、このような語り口の本を牧師たちが買ってくれることを望みます。スポルジョンの『朝に夕に』を英語で毎日読んでいる私は、彼の文章の格調の高さに感激し、「もしバッハが英語で主イエスにたいする愛を表現して書いたら、このような流麗な文章になるだろう」と思っていますが、そのスポルジョンが、深い教養をかなぐりすてて、自ら田舎牧師の口調で語っている――とは、意味深いことです。 ところで、スポルジョンは、妻を「喜びの源、掌中の花」と思い、その家庭はパラダイスであったので、妻とおとしめることわざに対して怒りを露わにしています。「男には妻に関して2つの嬉しい日がある。妻と結婚した日と妻を葬った日である」です(「妻たちへの助言」)。 別の本で読んだのですが、ある日スポルジョンは説教のために聖句を選んだのですが、どうしてもそれについて語るべきことが心に浮かばず、眠りにつきました。ところが彼のうわごとを聞いていた妻が驚きました。その聖句について、もっともふさわしいことを彼が夢の中で話したのです。それを書き取って、朝、夫に見せたところが、彼は大変喜んだそうです。彼にとって妻は「守護天使」でした。そのような妻を持っていたので、大衆を教会にひきつけ、大衆のために著述をすることができたのです。 (評・大塚野百合=恵泉女学園大学名誉教授) |
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| 週刊 『クリスチャン新聞』 2006年5月28日号=11面=掲載 | |
| 『生と性−−創世記1−3章にみる「男と女」』 高木 実著(いのちのことば社、B6判、997円税込) 本書を「性をテーマとした霊想書」と評してもいいかもしれない。少なくとも本書は性についての聖書的マニュアルやQ&Aではない。 性についての信仰良書は少なくない。その多くは性の諸問題と向き合いながら、聖書からの解答を提供している。しかし、本書において著者が向き合っているのは性の諸問題ではない。聖書そのものである。 KGK主事である著者は、学生たちの生々しい性的問題に向き合っているはずだ。その著者があえて創世記の1章から3章という特定のテキストに真摯に向き合っている。そこで読者もまた、聖書の御言葉に対峙することを余儀なくされる。本書が評価されるべき点はまずそこにあると言える。 また、「聖書的な正解」を安易に読者に与えることより、読者が御言葉に聞くようにと導く。マニュアルやハウ・ツーによる安易な解決を求める一方、御言葉によって取り扱われることを拒みやすい現代の信仰者たち。だからこそ本書が出版される必然性がある。 「あなたは性の分野において、御言葉に学び、御言葉に聞き従い、御言葉によって取り扱いを受ける覚悟はあるのか?」。あたかも読者にそうチャレンジしているかのようだ。 一読で理解し、消化しようとは考えずに、じっくりと何度も読み返しながら、御言葉の中に真理を見いだして行くべき書物である。賢明な読者なら性についての聖書的な知識を得るにとどまらず、深い神理解と人間理解に達し、それらを自らの成長の糧とするだろう。 同棲やマスターベーションなど、極めて現実的な問題を考える上でも一定の示唆を与えている点も高く評価したい。 個人的には「堅い食物」と思われる本書が、果たして売れるのだろうかとの心配もあった。しかし、評者の知るキリスト教書店では月間売り上げ第2位だと聞いた。こうした著書が正しく評価される日本のキリスト教界であることを喜びたい。 (評・水谷潔=小さないのちを守る会主事) |
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| 週刊 『クリスチャン新聞』 2006年5月21日号=11面=掲載 | |
| 『この国に思想・良心・信教の自由はあるのですか』 高橋哲哉ほか共著 (いのちのことば社、1000円税込) 「あの頃は軍国少年で、戦争に行くことは当然だと思っていました。小学校からお国のために死ぬことこそ最高の名誉と教わってきたんですから…」 「戦争に行くことに疑問は無かったのですか?」という質問に対して、ご老人はそう答えられた。評者の町で開かれた「九条の会」でのことである。 小泉政権は今国会で「教育基本法改正案」、「改憲国民投票法案」を通し、秋までに国民的人気を背景に改憲を実施しようとしている。改憲の焦点は9条であり、その目的は「緊張高まるアジア情勢。備えあれば憂いなし」とカモフラージュされているが、真のねらいは米軍のアジア戦略への加担であろう。 9条改変と表裏一体なのが、信教の自由・政教分離を定めた20条改変である。「20条改悪は国民を戦争動因に駆り立てる内面的戦争準備」(辻子実著『侵略神社』98頁)だからである。20条が改変されれば、天皇・首相の靖国参拝はおろか、公立学校生徒の靖国参拝強制も合法化される。我々の子どもや孫たちは、小学校から「愛国心教育」と称する戦争肯定の教育を受けることになろう。 このような時局に、本書の出版は実にタイムリーである。本書によって、読者はまず90年代初め冷戦構造の崩壊から99年以降の全体主義化の激流を把握できる。また、その先端を行く東京都教育委員会の国旗・国歌強要に関する現場教員のレポートには目を瞠るであろう。都教委による思想統制の実情は特高警察の再来かと見まがうばかりである。 そして、ドイツ告白教会の研究者、韓国民主化運動の担い手であった著者たちによって、今、日本の教会が世界の教会と連帯して戦うべきことが示唆され、さらに巻末に「良心的不服従」について神学的洞察も加えられる。 小さな本でありながら、まことに広くかつ深い。本書は、この時代を信仰と良心をもって生き抜こうとするすべての人に、必読の一書。心から推薦したい。 (評・水草修治=日本同盟基督教団小海キリスト教会牧師) |
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| 週刊 『クリスチャン新聞』 2006年5月14日号=11面=掲載 | |
| 『21世紀の福音派のパラダイムを求めて』 JEA記録誌編集委員会編 (日本福音同盟、1890円税込) 日本福音同盟(JEA)が1968年4月、日本プロテスタント同盟、日本福音連盟及び日本福音宣教師同盟を創立会員として発足してから35年の節目を機に本書が企画された。4章構成の本書の序章には歴代指導者の回顧があり、やがて40周年を迎えるJEAの意義の深まり、働きの広がり、活動の成果などが記述され、その中にはJEAの自己吟味も含まれる(「JEAは磁石の針ではなく、時計の針ではなかったか」など−17頁)。 第2章の7専門委員会(神学・世界宣教・社会・宣教・援助協力・女性・青年)からの各論稿は、JEAが世界・社会からのチャレンジに責任ある対応をどうしてきたかを跡づける。垂直次元を軸に水平次元の諸課題を真摯に受けとめようとする福音派の姿が浮き彫りになっている。また、草の根レベルからの提言(第3章)を読むとき、JEAの働きが、北海道から沖縄まで熱く支持され、各地方に存在する福音派の交わりを統合する触媒として機能してきたことも知ることができる。 「新しいパラダイムを求めて」との主題では新しい世紀の日本宣教、JEAの神学的指針となるべき諸教派と公同教会の関係を論じた2講演、「和解の福音」を主題とした「沖縄宣言」の検証と展望、また国際化時代における日本の教会の宣教を論じた2つの「座談会」が含められていて、新しい世紀におけるJEAの熱い思いが伝わってくる。JEAの歴史と展望を知る的確な資料として本書の価値を高めているのが付録のCDである。JEAの諸伝道会議宣言のテキスト、1980年のビリー・グラハム国際大会など、JEAの生の息吹に触れることもできる。 日本の教会は少数者である。しかし「福音に絶大な関心を持ち、福音に生き抜くという福音派の原点に立ち続けるならば、たとえ日本のクリスチャン人口がどんなに小さいものであっても、主のみこころの真ん中を歩めるのでは」(153ページ)との提言は、JEA加盟教会のみならず、福音主義信仰に立つすべての教会への励ましでもある。 (評・橋本昭夫=神戸ルーテル神学校校長) |
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| 週刊 『クリスチャン新聞』 2006年4月30日号=11面=掲載 | |
| 『キリスト教の霊性』A・E・マクグラス著 (教文館、2940円税込) 霊性に関する書として、本書はブローシュの『キリスト教信仰−真の信仰をめざして』(1998年・一麦出版社)の次に邦訳されることを待ちわびていたものである。マクグラスは、霊性という広範囲にわたるテーマを歴史的かつ神学的に整理し、キリスト教諸派の特徴を踏まえてそれぞれの定義を本書でまとめている。キリスト教界に受け継がれてきた古典(Classics伝統の書)を具体的に説明しながら、現代の私たちがそこから霊性について学ぶことができるよう質問事項を記し、更なる研究のための諸本も紹介している。 特に第2章「世界・文化・歴史への態度」という項目と第4章「神学的土台」を、読者に丁寧に読んでいただきたい。霊性と神学がいかに密接に関係しているかを学ぶことができるからである。 著者は前著『キリスト教の将来』においてペンテコステ・カリスマ運動に注目し発言しているが、本書ではあまり触れていないのが残念である。プロテスタントという一つの枠で主流派、福音派、ペンテコステ・カリスマ運動を網羅しようとしているが、あまりに広範囲なため、やはり説明不足の感が残る。せめてペンテコステ・カリスマ運動については別の項目を設け、その聖霊論と霊性について記述しても良かったのではなかろうか。 また、「マクグラス氏の本は基本的にカットアンドペースト的なものである」と言う批判を聞くことがあるが、私はそのようにとらえていない。広範囲な内容をもつテーマを組織的に整え、読者に分かりやすく説明してみせる能力に優れていると考えている。訳者が「あとがき」で述べているように「キリスト者の霊性の問題を、歴史的に十分な射程をもって解き明かしている」書であると考えるべきだろう。 霊性という分野の入門編として用いられると共に、本書を通して「生ける神との新鮮な出会いのための通路となる著作の発見」へと導かれることが読者に期待されている点を心に留めたいものである。 (評・具志堅聖=日本福音同盟総主事、ウェスレアン・ホーリネス教団浅草橋教会協力牧師) |
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| 週刊 『クリスチャン新聞』 2006年4月23日号=11面=掲載 | |
| 『黙想と祈りの手引き』 加藤常昭著 (キリスト新聞社、2520円税込) 『黙想と祈りの手引き』と題された加藤常昭牧師の好著が出版された。「手引き」とは、手ほどきや懇切丁寧な指導を予測させる。あとがきの中で著者は「黙想も祈りも実践することが大切であり、こうした書物は、まさしく手引きでしかないのである」と述べている。本書は青年男女のための集会における講演がもとになっている。76歳の著者は、次世代を担う青年男女が祈りにおける主との関係を深めてほしいとの願いをもって語った。 「祈りの道」と題する第1部で、聖書で教える祈りについて、祈りの心について、扱われる。聖書が教える「祈り」の教理が、聖書から説き明かされる。第2部として、「黙想への勧め」が続く。「黙想というのは、この神の言葉を聴く沈黙の行為です。沈黙の時です。黙想というのは、まず何よりも黙って神の言葉を聴くことです。黙想の修練はこの聴く修練を受けることから始まります。そしてこの黙想から祈りが生まれます。祈りが黙想の姿勢を作ります」(69頁)。散歩しながらの黙想など具体的なアドバイスがあり、参考になる。評者がテゼー共同体の黙想に参加した時、祈りの集いの前30分ほどクラッシック音楽が流れていて、黙想の助けになった経験があるが、著者も音楽・会が・書物との対話を勧めている。 第3部では「祈りへの道」と題し、「祈り」と「黙想」を踏まえた上で、さらに深い祈りへの招きがある。著者はご夫人との歩みの中で「しかしひとりになった時、妻も私が、いったいどのように何を祈っているのか知らない。お互いに見せないし、語ろうともしない。これはとても大切なことで」(129頁)と述べ、一人ひとりが大切にする内面の歩みを強調する。第4部では、一人の人格としての祈りの歩みの大切さを理解しつつ、教会、共同体として共に祈る祈りを取り上げる。 「祈りと黙想」の「修練」を通して深まる霊性への格好の「手引き」である。内面の神秘性を理解するが故に、「手引き」をする著者の心を感じる。 (評・福田崇=日本ウィクリフ聖書翻訳協会アジア大洋州地区総主事) |
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| 週刊 『クリスチャン新聞』 2006年4月16日号=16面=掲載 | |
| 『ペッレと二枚のてぶくろ』 文・カーリー・ヴィンイェ 絵・ビビアン・ザール・オルセン(イーブックス出版、1995円税込) 人は死んだらどうなるのか? これは、子どもたちにとっても大きな問題です。 ペッレにはスサンネという妹がいました。やっと歩くようになり、「パパ」や「ママ」と言えるようになり、もうちょっとで「ペッレ」と言えそうになっていました。ペッレはスサンネがかわいくてたまりませんでした。 ある日、ペッレは寝ている妹を起こそうと顔を羽でくすぐりました。でも、妹は起きない! もう息をしていない! ベッドの中で寝たまま死んでいたのです。ペッレは事態を理解できず、苦しみます。そして、ご近所のフィンケルトップおばさんに質問します。このおばさんは、信仰に関する事柄を子どもによく分かるようにお話できる人なのです。 おばさんは、2枚の手袋を持ってきました。茶色の古い手袋に手を入れて動かして見せました。それは今までの生きて動いていたスサンネのことでした。でも、スサンネは死んで、その体はぬけがらになりました。だからおばさんは手袋をぬいだのです。もう手袋は動かない、生きていない「物」です。でも、手そのものは生きていて、天国へ行ったことを教えてくれました。天国へ行った手は、神様からまったく新しいからだをもらいます。おばさんは、もう1つの美しい手袋を見せてくれました。白い絹に、金色の糸とパールで刺繍されていました。おばさんは、今スサンネが天国でもらっているからだはもっともっとすばらしくて、だれにも想像もつかないと言いました。 イエス様は死に打ち勝って復活なさいました。それを信じる子どもたちも、死んだ後新しいからだをいただくことができます。永遠にイエス様とともに生きるのです。2つの手袋を使って「死」と「復活のからだ」を説明しているところが新鮮です。作者はノルウェーの児童文学者カーリー・ヴィンイェです。彼は子どもたちに伝わるように信仰を噛み砕いて表現し、絵本にしました。妹の突然死の悲しみから、永遠の命について学んだペッレとともに、この絵本から私たちも復活の希望を抱くのです。 評・澤谷 由美子(おはなしのへや主宰者) |
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| 週刊 『クリスチャン新聞』 2006年4月9日号=11面=掲載 | |
| 『唱歌・讃美歌・軍歌の始源』 小川和佑著 アーツアンドクラフツ、2415円) 本書を楽しく読み進む上で、強く感じたのは主として次の3つである。 1、「時代を写す歌の社会学」。明治、大正、昭和の約130年間、激動の20世紀に歌われた主な歌と、当時の社会の関係を浮き彫りにした読み物である。ラジオしかなかった昔、筆者は「歌は世に連れ、世は歌に連れ」ということばをよく耳にしたものである。今、やや学問的に表現するなら<音楽社会学>というべきか。音楽の需要と供給のバランス、いわば歌のルネッサンスさながら。日本人はこんなにたくさんの歌を歌ってきたのだと改めて驚かされる。 2、「日本人は右脳か左脳か」。結論は出ていないし、簡単に断ずることはできない。ここで著者は、物語風の何節もある長い歌詞は、その話の展開に興味を持って楽しんで歌ったものだろう(→左脳)。しかし同時に、ハイカラさんの時代の歌などは、日本人はかっこよさのために歌った部分もあるのではないかという鋭い見方(→右脳)もしている。キリスト教と西洋音楽がほぼ同時に上陸したという歴史的な経緯に基づく事実であろう。そうなら日本人は、ある時は右脳で、ある時は左脳で歌ってきた、世界でも珍しい民族といえるのだろうか。 3、「文明開化・和魂洋才の実も」。和魂洋才という文化様式を追い求めてきた日本が、音楽をもって情操教育の目的を果たすために払われた先駆者の努力は、はかりしれないものがある。とくに音楽教育関係者による、日本民族の将来を見据えた深謀遠慮が、世界の歌曲の名日本語訳(近藤朔風)などを生んだ。作曲では山田耕筰・中山晋平・滝廉太郎。作詞では北原白秋・西条八十・野口雨情など懐かしい名前が並び、歌の文化史という深い河の流れを一望する思いがする。 明治時代に輸入されたキリスト教のシンボルともいうべき音楽が我が国の音楽教育に果たした役割の大きさについては、言を待たない。これを読んで、真にすぐれた民族性を生かした、新しい音楽文化の創造への努力がますます期待されるのではないかと思う。 (評=天田 繋 東京基督教大学特任教授・東京基督神学校音楽科主任) |
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| 週刊 『クリスチャン新聞』 2006年4月2日号=12面=掲載 | |
| 『キリスト教諸教会とデモクラシー』 A・D・リンゼイ著(聖学院大学出版会、1680円税込) 本書は1934年に出版されたA.D.リンゼイの有名な講演記録だ。その年はドイツでヒットラーによる国家権力の強制的、暴力的支配が台頭した時期。それに対しリンゼイは、デモクラシーが共同体における自発性と多様性という豊かさを守るとした。リンゼイが教会の使命とデモクラシーを連結しようとした背景には、ヨーロッパで独裁政治が力を発揮し始めたことへの危機感があったと言ってよい。 学問的な注目点は、M.ヴェーバーが1911年発表した『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で禁欲的プロテスタンティズムの社会哲学に焦点を当て、同僚のE.トレルチが1912年に『キリスト教諸派における社会教説』でキリスト教史全体を対象にする社会教説の研究を残したこと。そしてリンゼイと同じく「労働者教育協会」で活動したR.H.トーニーは1926年、ヴェーバーに刺激され『宗教と資本主義の興隆』を記した。ここに経済発展した複雑な生活にガイドラインを提供する社会倫理学の発展が準備された。 これらの学問的背景のもとリンゼイは、20世紀前半の危機的状況下でデモクラシーの重要性を説き、キリスト教会がその霊的源泉を提供すべきことを見事に論じた。「共同体全体の霊的繊細さを高めることは教会の仕事です」(52ページ)と言い、キリスト者は行政機構や経済規制にも活気を与えられるゆえ、民主的な機構を維持し、改良することに関心を向けるべきだとする。国家にできず教会にできることとして、人々の魂の健康を取り戻す「ボランティアの奉仕」を取り上げた。しかも当時の失業センターをイギリスの諸教会が支援していたが、人間性を低く評価していた教会代表者のせいで、それが「単なる娯楽施設」になったと現状批判もしている。これは、当時の教会に対し人間の聖化を忘れないように促すものだった。 まとめで、教会が教会になること、キリストに従うものたちが敏感な感受性や想像力豊かな洞察を保持することを勧めているのが印象的である。 (評・東方敬信=青山学院大学宗教部長) |
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| 週刊 『クリスチャン新聞』 2006年3月26日号=12面=掲載 | |
| 『はじまりの死生学』 平山 正実著(春秋社、2310円税込) キリスト者精神科医として長い間臨床場で多くの患者と接してきた著者が、「希望に目覚めてほしい」と渾身の力をこめて心病む現代人に迫り、その真のいやしと救いへの道を提示している最新の名著である。 著者は聖書や神に対して否定的な人々を念頭に置きながら論述を展開しているようだが、我々キリスト者こそが本書をしっかり読んで、「信じて生きる」とはどういうことかを確かめるべきであると思う。論じられている事柄が複雑多岐にわたり、この小欄の中で要約しきれるものでないので、読後の感想を述べて書評としたい。 「気づかされた」第1のことは、「存在感」を喪失している現代人・現代社会の病的状態の深刻さである。対人関係における分裂や不信感の中で苦しんでいる若者たちが「リストカット」という自傷行為によって自分の「存在」を感じようとしているとはあまりにも悲しい。「存在の危機」に直面すると、「人格障害的防衛」や「躁鬱的防衛」という病的な形で対処しようとする人々がたくさんいることを知って驚く。「不条理としての悪」の存在理由と救済について、多くの聖句を駆使しての論述には説得力がある。 「気づかされた」第2のことは、「存在の病的状態」から抜け出る処方として著者が示した「記憶」による覚醒、「失楽園」における真の目覚め、「自由」と「規範」の関係性への目覚め、など。「弱さと痛み」による覚醒は、現実の中で確かに有効に働いており、キリストの「救い」とも連結する。 最後に、著者の訴えを引用して締めくくりとしたい。「死や病という暗いトンネルを経て、スピリチュアリティの覚醒が生じる。そして、新しい『生き生きとした生』が始まる。ここに筆者が説く『はじまりの死生学』の原点がある。生の終わりとしての病や死や弱さが、まさに生のはじまりとなる。その意味で『はじまりの死生学』とは創造と希望の学問でなければならない」。ご購読を心からお勧めしたい。 (評・佐竹十喜雄=日本バプテスト教会連合国分寺バプテスト教会協力牧師) |
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| 週刊 『クリスチャン新聞』 2006年3月19日号=12面=掲載 | |
| 『詩篇を味わう1 1−41篇』 鍋谷 堯爾著(いのちのことば社、2310円税込) 本書は、旧約聖書研究に生涯をかけてこられた著者からの日本のキリスト教界に対する意義深いプレゼントである。 ともすれば詩篇の霊解にともなう危険を、著者は適宜にふまえている。健全な歴史と正典との神学的理解に基づいた、神のことばとしての詩篇研究の成果が、一般信徒に興味深く説明されている講解書と言い得る。それゆえ、単なる情緒的な詩篇理解ではない。聖書中の詩篇を通しての神の啓示という立場を明確に保ちつつ、聖書本文と聖地の歴史的現実に通じている著者が、読者の興味をとらえながら逸話的な説明などを付して効果的に展開している。 詩篇(詩文)におけるヘブル語の接続詞「ワウ」の存在についての説明などは、その一例である(273〜9ページ)。新約聖書のほうが旧約聖書よりも多く読まれているという一般的な傾向の中で、本書は詩篇の理解との関連で新約聖書の引用が多くなされている。聖書学者であると同時に聖職者として教会のわざに長年かかわっている著者の正典論的な詩篇理解をよく示していて、広く教会で歓迎されるべきであろう。 また、テキスト(聖書本文)について(19〜24ページ)や、旧約聖書の内容の伝承が、詩篇研究との関連で総括的な正典論という視点から説明されている(84〜88ページ)。それによって、神学校での教材的な要素をももっていて、聖書を真剣に学ぼうとする神学生などにも有益である。 加えて、日本でも日本語の多訳聖書時代となっている現状を考えるとき、聖書翻訳の諸課題にも有益な示唆、または参考資料となる性格をも本書は備えている。それだけに、この第1巻(1〜41篇)に続く全詩篇の、著者による講解書が鶴首される。 また、著者の協力者、飛鷹美奈子氏の陰の労に対して感謝したい。個人の日々のデボーションに日課として、または教会などのグループの学びなどにも使用されることをお勧めしたい。 (評・服部嘉明=元東京基督教大学教授、現ユーオディア〈北米シアトル〉顧問) |
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| 『ヨハネの黙示録講解』村瀬俊夫著 (いのちのことば社、1890円) この書は、著者の村瀬俊夫牧師が蓮沼キリスト教会で行った30回にわたる礼拝説教をまとめたものである。著者は、ヨハネ黙示録の連続講解説教を始めるにあたり「黙示録としっかり向き合い、難解で知られる以上に何となく無気味に思われている文書から語りかけられている“新約の福音”を聴きたいと願いました。きっと私たちにとって『愛と希望のメッセージ』であるに違いない、という予断と期待と確信をもって取り組みましたが、幸いなことに裏切られることはなかったと実感させられています」と「あとがき」に書いておられる。 本書の特徴をいくつか挙げると、まず分かりやすいことである。それは、実際に教会で語られた説教であることだからであろう。黙示録と旧約聖書の関係やそこからの引用、書かれた当時のローマ帝国の解説、さらに「9・11」、「オウムとハルマゲドン」「原理主義」など現実の話にも触れて講解されている。 次に、黙示録が「教会」にあてられたものであると同時に、そこには「天での礼拝の様子」が描写されているので、教会・主の日・礼拝・聖餐式などの意味がその都度分かりやすく解説されていて、読む者に「ああ、そうなのか」と納得させてくれる。 さらに、聖書に密着して講解されていること。あくまでも聖書のことばに向かい、そこから意味を聴こうとしている。であるから、極端な解釈に陥ることがない。 著者は「まえがき」で、「どうしたことか、ヨハネの黙示録だけは親しめず、繰り返し通読することはありませんでした」と正直に語っている。それはまた、われわれの現実かもしれない。だとすれば、著者とともに、黙示録に満ち満ちた「キリストの福音」に目を見張るであろう。 著者問題や千年王国問題などで、著者と意見の異なる者もいよう。が、それを越えて、この書は、読む者に「愛と希望のメッセージ」を伝えてくれる温かい講解書となっているのである。 (評・中村寿夫=単立・満濃キリスト教会牧師) |
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| 週刊 『クリスチャン新聞』 2006年3月5日号=12面=掲載 | |
| 『告白と抵抗 ボンヘッファーの十字架の神学』 森野善右衛門 著 (新教出版社、1890円税込) 著者はボンヘッファー研究と翻訳、紹介者としてこの国で多大な貢献をしておられる。その著者により本書がボンヘッファー没後60年にあたる昨年に出版されたことは、時宜を得て喜ばしい。 6章(論文、講演、説教)からなる本書は、著者のボンヘッファー研究、特に教会論を軸に展開されており、論じるその矛先は混迷するこの時代の教会、特にわが国の教会に向けられている。今日教会はその本質に根ざした教会論により、この時代とかかわることが求められている。その点で著者は本書でボンヘッファーの展開する教会論を通じ、福音の政治的帰結にまで論を進めようとしている。この辺りを理解するためには、読者にボンヘッファーの教会論の解説文的役割を果たしている「V教会・キリストの形成るまで」を丁寧に読まれることをお勧めする。 ボンヘッファーが机上の神学者でないことは言うまでもない。彼はベルリンの組織神学者でありながら、バルメン―ダーレム告白会議の路線で闘い、反ナチ運動、そして39歳の若さでナチによって銃殺された人である。彼によって提言された教会論は、「他者のための教会論」(39頁)ということになるのだろうか。そこでは信仰告白がそれ自体で埋もれてしまうことが批判され、現実的な状況下で教会はどこに立つべきかが問われている。 私はボンヘッファーの「告白と行為」に少なからず関心がある。信仰告白は「告白」である限り「行為」、それも「非宗教的行為」になるのは必然である。しかしボンヘッファーにとって最終的に「教会」が「労働・結婚・政治的権威・教会」と相対化されるのはどういうことか、著者の意見を伺ってみたい。 私はかつて「良心」の問題を考えながらキルケゴールを読んでいた時、ボンヘッファーの「宗教的行為ではなくて、この世の生活の中で神の苦難にあずかることが、キリスト者を造る」を読んで、衝撃を受けたことがある。本書を読み、再度ボンヘッファーの著書を開いてみたいと思わされた。 (評・池尻良一=福音交友会貝塚聖書教会牧師) |
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| 週刊 『クリスチャン新聞』 2006年2月26日号=12面=掲載 | |
| 『パワー ローマ書』ジョン・ビョウンウク著 (小牧者出版、1890円税込) 韓国の伝統的な教会といえるサミル教会に赴任した著者が、80人しか残っていない信徒たちと共に取り組んだ挑戦は、神にへりくだり、信仰の基本に立ち返ることでした。それは、崩れてしまった教会の礎を再び建て直すことであり、敗北感にとらわれていた教会の体質を変えるための最後の選択でした。著者は神に叫び祈ります。「神よ。このしもべにみことばを注ぎ給え。信徒たちの信仰を変えるみことばを与え給え」。そこで示された神の御言葉が「ローマ書」でありました。 本書は難しいローマ書の注解書ではなく、むしろ分かりやすい説教集であり、手引きであると言えます。特に、これまでの聖書解釈に用いられてきた典型的な言葉遣いから大胆に脱皮した説明は、新しい世代への新しい視点による解釈ではないかと思われます。著者は、神の御言葉が知識的な理解にとどまらず、自分の生活の現場にまで影響するパワーになるべきであると語り続けます。その意味で、本題を「パワーローマ書」にしたのではないかと思います。 もう一つの特徴は、適切な実例を多く示しながら語るため、求道者でも読みやすい教理解釈書であることです。多少刺激的な表現もありますが、若者を意識した著者の説教現場を理解するなら、新鮮な読み取りができるだろうと思います。 そして、著者の礼拝に対する強調が目立つことです。これは著者の講義と他の書籍からも伺えることですが、80年代から韓国教会が重んじてきた、聖書研究を中心とした弟子訓練が、思弁的な信仰者を量産してしまったという著者の反省意識よる先導的な強調ではないかと思われます。礼拝のリバイバルこそ信仰と教会のリバイバルであるというのが、著者の神学であるとも思います。 最後に気になるところは、大切な6章15節から23節の「義認と聖化」に関連する部分が抜けていることですが、少し我慢してこれから続けるだろう著者の他の書籍からでも教えていただきたいところです。 (評・趙南洙=日本同盟基督教団招待キリスト教会牧師) |
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| 週刊 『クリスチャン新聞』 2006年2月5日号=13面=掲載 | |
| 『バイブルに見るビジネスの黄金律2』 (マナブックス、1050円税込) ドイツ証券株式会社会長・元富士銀行会長橋本徹氏、元日経BP会長・自由学園理事長永田氏、人事コンサルタントで元武田薬品工業専務取締役柳下公一氏、愛知万博市民参加事業プロデューサーでオイコス・チャペル牧師小川巧記氏、株式会社サンクゼール(旧高原農場)代表取締役久世良三氏など様々な業界で活躍するクリスチャンビジネスパーソン20人の証し集である。 企業買収、不良債権処理、国会での参考人招致、人事異動、職場でのいじめ、死への漠然とした不安、過労、病気、左遷、不動産投資の失敗、8億の負債、倒産、破産、国際交渉、対米事業進出などビジネスや生活上で試練に向き合った人々が、どうやってイエス・キリストに出会い、また知識でしかなかった信仰を体験し、乗り越えていったのか。その生々しい現実が書かれている。 さらに興味深いのが、そのキリスト教信仰がどう自分のビジネスに生かされているか、という視点だろう。ある人は企業の中での真の個の確立、ある人は真の企業倫理、社会的責任、そのほかの人たちも聖書に基づく経営、正義・公平・愛の観点、神がつくられた自然環境の保全、環境経営、持続可能的ビジネスなどの言葉で、自分のビジネスにどう信仰が影響を与えているかを表現している。 ビジネスパーソンの伝道用には最適な1冊であり、将来を考えている若いクリスチャンの学生、ビジネスパーソンにもお薦めだ。 【藤岡竜志】 ↓お申し込みはこちら↓ http://jpnews.org/books/biz2/ |
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| 週刊 『クリスチャン新聞』 2006年2月12日号=12面=掲載 | |
| 『地の基震い動く時−阪神淡路大震災と教会−』 岩井 健作 著 (コイノニア社、1890円税込) 兵庫県南部大地震−通称、阪神・淡路大震災−の後、岩井健作先生とは日本基督教団兵庫教区で一緒に(正確には下で)働かせていただく機会を得た。この著書はそのころから昨年までの岩井牧師の「説教原稿集」の一部である。この内で「声の碑」は、1月17日の「全逝去者記念礼拝」で直接に聞く機会も与えられた。その説教を結節点として、前半は震災直後の7週間の神戸教会での礼拝説教、後半は新たな歩みの中でなされたいくつかの説教だ。 私には前半6編がやはり生々しく、当時の記憶を呼び起こす。1995年3月5日の主日礼拝説教「神は私の歩む道を知る」には、電気暖房の効く階下講堂で守っていた礼拝を、都市ガスが復旧して暖房が使えるようになったので、この日から礼拝堂で守ることになったとある。別の教会ではあったが、折れた柱と崩れた壁の瓦礫に囲まれて守った、私自身の礼拝の記憶もよみがえってくる。 その中で、岩井先生の震災後の思想的営みをまとめた文章である「子どもの死の意味を考える−プロローグとして」に共感を覚えた。それは、震災から10年以上がたった今、神戸には瓦礫こそ無いように見えるが、点々と撤去跡の更地はあり、それと同じ程度に「地底から突きあげてきたあの一撃で、子どもさんを亡くされた親にとって、家族にとって、『なぜあの子が』という問いは、日常の切れ目から、心の痛みとなって浸み出てくるであろう」ことを知るからである。この痛みを知る者においてこそ、十字架の主イエス・キリストの死と復活の歴史的事実は深い慰めとなる。「残っている者の責任、不条理の死の意味、子どもの死が問う日常と文化」(いずれも著書中の表現)に対して、神からの呼びかけであり解決でもある言葉が与えられている、それがイエス・キリストの福音である。 それぞれの説教の後に岩井牧師の祈りが記されている。その祈りを共にし、アーメンと和する者である。 (評・赤川祥夫=日本基督教団岡本教会牧師) |
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| 『国家を超えられなかった教会』 原 誠著 (日本キリスト教団出版局、6720円税込 ) ![]() 本書の副題「15年戦争下の日本プロテスタント教会」が示すように、満州事変(1931年)から日中戦争、太平洋戦争敗戦(1945年)まで足掛け15年間にわたる日本の対外戦 争期のプロテスタント教会の実情を研究・分析した論文です。この時期の日本プロテスタント教会の研究書というと、宗教弾圧など被害者の視点から当時の状況を分析してい くもの、あるいは逆にアジア諸国の教会との関わりなど加害者の視点というような先入観を抱きかねませんが、著者は「明治期以後の約半世紀の間に形成されてきた日本のキ リスト教の実質、あるいは体力、実力というものが、戦時下という国家の危機的状況の中で試された、という認識が必要ではないか」という視点を基本に据え、15年戦争下の 教会を分析していきます。 収められている9つの論文は、当時の神学、ファシズム下での教会の状況、地方教会の実情など多岐にわたっています。1章「日本のキリスト教の中間総括としての戦時下 の教会」は、本書の視点や方法論に触れながら日本のキリスト教史全体を鳥瞰した序章的な論文です。著者はこの章をとおして「実は、戦時下のキリスト教は、日本のキリス ト教の歴史的特質・制約を負いつつ、その時点において到達していた水準を現していた」と述べています。 15年戦争下に誕生した日本基督教団そのもののを様々な角度からの検討は、その後60年を経た今日の教会への問いでもあります。 |
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| 『映画 日本国憲法 読本』 島田惣作、竹井正和編 (フォイル刊、1470円 税込) 「映画 日本国憲法」(ジャン・ユンカーマン監督、[株]シグロ)をご存知でしょうか? 戦後60年を向かえた2005年作品で、現行憲法の制定される経緯から「平和憲法」と評される今日的意義までをアメリカ、アジア、中東、ヨーロッパなど8か国の学者、政治家、作家、そして一般市民など十数人のインタビューとニュースフィルムなどで構成されたドキュメンタリー映画です。 本書は、「映画 日本国憲法」の採録シナリオ、ジョン・ダワー(歴史家)、ノーム・チョムスキー(言語学者)、ベンテ・シロタ・ゴードン(憲法草案作成者の1人)、チャルマーズ・ジョンソン(アジア政治学者)、日高六郎(社会学者)、韓洪九(歴史学者)、ら6氏のインタビュー全文と資料などが収録されている。視点は明晰。いわゆる改憲論者が「集団的自衛」というあいまいな言葉を使い、日本は「普通の国家」に生まれ変わるべきだとの主張に対して、憲法9条を基に「戦争しない国」として歩んできた日本が、「改憲」で交戦権の下に戦争を行う国に変わるとしたら、アジアはじめ世界から孤立していく危惧とその根拠を語り、警鐘を鳴らす。知識人たちのインタビューだけでなく沖縄・屁野古で座り込む男性が「憲法の、国民の普段の努力によって権利というものは守っていかなければいけないんだ」という言葉に、「平和」を築いていく不断の「連帯」を、心に問いかけられます。 |
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| 週刊『クリスチャン新聞』 2006年1月29日号=12面=掲載 | |
『ジョン・ウェスレー』 野呂 芳男著 (松鶴亭、3675円税込) ジョン・ウェスレー研究文献に、卓越した1冊が加えられた。野呂芳男氏は、代表的ウェスレー研究者であり、青山学院大学や立教大学で教えたすぐれた教師だが、現在、単立教会ユーカリスティアなど、多くの方々を導く「牧師職人」である。入院生活の試練を乗り越えて4冊目のウェスレー研究書を世に問われた。高い評価を得た前著、『ウェスレーの生涯と神学』から30年。この間の研究の集大成こそ、本書であろう。 ウェスレーの生涯が綿密な資料研究に基づき、独自の解釈を加えながら的確に述べられる。神学思想(神学的認識論、人間論、キリスト論、キリストの御業、義認と聖化、キリスト者の完全、聖霊による確証)の明快な解釈は、本領発揮の部分。さらに、著者の実存論的解釈と、アウトラー、ランヨン、カブという代表的なウェスレー学者の解釈との対論が続く。先年、ウェスレー国際学会(オックスフォード大学)において、野呂氏の研究と貢献を高く評価し評者に語ったランヨン博士の言葉を思い起こす。 結びは、ウェスレー研究の将来への展望と提言である。本書の「栞」(出版への労を取られたユーカリスティア牧師、林昌子氏による)によれば、野呂氏は本書出版後も、ピューリタニズムとの関係の再検討、ウェスレーによる民間医療書への注目、モラヴィア兄弟団とのかかわりの再考など、その学問的関心は止むことがないという。 資料の扱い方と解釈の妙、独特で明解な発想(渋滞の中で、立体道路の通行から「次元の相違」を発想されたこと、また幼い日、東京下町での職人芸への思い出など)、キリスト者の完全における愛の理解、特にアガペーとエロスのかかわりなど、多くを教えられた。しかし、受けた感銘の大きさゆえに本書で立ち止まることなく、ウェスレーの著作を読み直しつつ、教示された問題点を熟考していきたい。生誕300年を経て、ジョン・ウェスレーの研究はいよいよ広まり、深まるに違いない。 (評・岩本助成=日本フリーメソジスト西田辺伝道所牧師) |
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| 『ドメスティック・バイオレンス そのとき教会は』 アル・マイルズ著 (日本キリスト教団出版局、3360円税込) なんと重たい課題であろう。誰もが避けて通れない、深刻な日常的状況を指し示している資料が提供された。対象とする読者をキリスト教界に定めているのは、キリスト者であることはこの重大な問題に対する免疫とはならないということを明らかにしている。日本語でも定着してきたこの用語は、しばしばDVという略語で表現されている。家庭内にとどまらない暴力であり、虐待の問題である。日本でもやっと焦点が当てられるようになってきたが、以前から長い間、存在してきた問題でもある。ただそれは隠された出来事であったり、ある面「当たり前」の事として受け止めてきた社会の歴史がある。 著者は病院のチャプレンを長く勤めてきた牧師で、表面上見えにくい家庭内暴力や様々な虐待の事実に多く直面してきた。まず牧師たちにこの問題を認識してほしいという思いから、本書が生まれた。彼の憂慮の中に、牧師たちにも「加害者」が少なからず存在するという現実があった。したがって原題に「すべての牧師が知っておくべきこと」という言葉が含まれているのである。 高く評価すべきなのは、マイルズが極めて沈着にこの深刻な問題に対応している点である。著者は警鐘を鳴らしているのだが、どの教会の中でもありうるこの難しい問題を解明する中で、いくつかの問いを投げかける。人間、特にクリスチャンは、なぜ無視できないのか? どのように問題の解決にむけて協力体制を組むのか? キリスト教信仰の視点から暴力や虐待はどのように理解されるべきか? これらに対し実例をあげながら、丁寧に平易な表現で問いかけている。チャレンジは主に牧師に向けられているが、教会とすべてのクリスチャンにも投げかけられている。 イエスの福音と暴力・虐待は相容れないものだが、その福音によって打ち勝っていく可能性を著者は冷静な姿勢で指し示そうとする。優れた翻訳で本著が出版されたことは、キリスト者にとって責任に目覚めるよい機会であろう。 (評・深田未来生=同志社大学名誉教授) |
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| 『勇気あるリーダーシップ』 ビル・ハイベルズ著 (福音社、2625円税込) 2005年6月にシカゴに行き、ウィロークリーク教会を訪れた。3年前の訪問時よりさらに大きな新会堂ができ、多くの人々が集っていた。今、シカゴで一番大きく成長しているこの教会に強い関心をもった。 多くの伝統的な古い教会が停滞している中で、なぜこの教会は成長を続けているのかいろいろ聞き、部分的には理解していた。だがこの本は、私の疑問に真正面から答えを与えてくれた素晴らしい贈り物である。 著者が言っているように「繁栄している教会の共通点は、その教会が“指導”の賜物を持ち、それを有効に利用している人たちによって導かれているか、という事」。その指導の賜物を自覚し、勇気をもって教会を指導し育てたのが著者である。 この本は、著者のリーダーとしての教会指導体験記録だ。多くの失敗をしながらそのつど神の前に出て祈り、勇気をもって教会をリードしてきた素晴らしい実証済みの知恵の本だ。たとえば、「地域に根ざした教会はこの世の希望…信仰を持たない人たちをキリストの熱烈な弟子に変える事」と、まずビジョンを明確にし、情熱をかき立てる。そして、その指導者の情熱は感染するという。 成長の過程で3つの重点分野を決め、徹底化。それは、1.伝道2.信徒の霊的成長…全員小グループに参加3.私たちのお金などの資源を教会の外でもっと使う。さらにチームのメンバーを選ぶ3つの基準は品性、能力、根性である。そのほかに教会を成長に導くリーダーとして、その成長段階に応じてどのように勇気をもって決断したらよいか、など。神から与えられた多くの素晴らしい知恵がそこにある。 しかし、一番学ばされたのは、著者自身が神の前に謙虚に歩む強いリーダーとしての姿勢そのものであったことだ。それを「自分に指導する」という項で書いている。 今、多くの日本の教会が、宣教のために苦闘の日々を送っている。この本は、そのような日本の牧師、役員たちへの強い励ましの本である。 (評・三谷康人=元鐘紡叶齧ア取締役) |
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