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『ローマ人への手紙講解説教[上]』 奥村 修武著
(キリスト新聞社、4200円
税込)
       
                    
 ローマ人への手紙は難解な書物です。1世紀中葉、パウロがローマの教会にあてて記したことの意味を明らかにしつつ、現代の日本に生きる私たちに意義深い使信として語ることは、容易ではありません。その困難な作業を、故奥村修武牧師は病身の身で成し遂げられました。本書を読み進むにしたがって、師が大切にしておられた原則が浮かび上がってまいります。
 第1の原則はギリシャ語本文、その文法、文脈に誠実に向かうこと。これが土台です。第2に、他のパウロ書簡はもとより聖書全巻にわたって関連個所を参照すること。聖書神学的考察を抜きにしてこの手紙を理解することはできません。第3に神学者、注解者たちと対論すること。カルヴァン、ルター、バルト、ケーゼマン、ヴィルケンス、ティーリケ、ボーレン、内村鑑三、関根正雄、高橋三郎等が登場します(ただ、ムーの註解は間に合わなかったとしても、マーレー、クランフィールド、モリスの名が見当たらないのが意外でした)。こうした取り組みによって、ローマ書を記すパウロの思い、書かしめた主の恵み深いご計画が明らかにされます。
 それと共に奥村牧師は、この時代、この日本に生きる者たちを見据えて福音を語ります。仏教、儒教、神道の教え、教育勅語や国家主義、水子供養等との違いを論じ、西田幾多郎、丸山真男、加藤周一、森有正の言説に向かい、芥川竜之介、石川啄木の作品に触れ、オリンピックやオウムの裁判のニュース、援助交際、家庭内暴力、子どものしつけ、プロ野球、東伏見の町のことにまで話は及びます。恩師コーウィン宣教師を始め文字通り福音に生きた人々の証しも折に触れて紹介されますから、みことばの真理が現実のものとして迫って来ます。その上、説教者、牧会者としての苦労や闘いを正直に語るこの講解を、私たちは東伏見の教会の会堂に座して師の肉声を聞いているような臨場感をもって、読むことになるのです。

(評・内田和彦=聖書宣教会・聖書神学舎教師)



 月刊『幸いな人』小牧者出版、600円税込)
       
                    
 
 「『幸いな人』はデボーションに限らず、信仰生活に必要なものを盛り込んでいます」と語るのは、小牧者出版の吉田求さん。デボーションを聖書への関心、精読、静聴、適用、実践の段階に分けて解説・指導している。 
 特徴は、直接聖書のみことばから聴くということ。聴くことにも成長過程があり、また忙しい人はなかなか難しい。そのために、「幸いな人」はいろいろな工夫をしている。例えば、毎日、必ず1つ証しが掲載するようにしている。「もちろんすべて実話です。編集方針として、必ず実際のできごとを掲載しています。特にその日のみことばを実践した人の証しです」と吉田さん。「私たちを本当に感動させたり、神様は本当に生きて働いてくださるのは証しですね」
 1日分のテキストとして表に聖書のみことばが書いてあり、自分で自由に書くスペースがある。裏には証しが出ている。まずは自分で、聖書のみことばを読み、感じたことをノートにつける。その後に証しを読む。それを通してクリスチャンの交わりに入れない人も、人の証しを聞くことができ、分かち合いができる。
 
 
 問い合わせ 
 小牧者 ポエマ=茨城県つくば市大曽根3793ノ2
 TEL:029・864・8031


『ローマ史のなかのクリスマス』
 保坂 高殿著 
(教文館、2625円税込)
       
                    
 クリスマスが12月 25日に祝われ始めたのは、ローマにおいてキリスト誕生から300年以上経た4世紀序盤のこと。本書はこの降誕祭 発生の背後事情に迫る。
 私たちはO・クルマンの『クリスマスの起源』に見られる、教会や社会の上層者の視点に立つ起源説で満足してきた。混淆主義的なコンスタンチヌス大帝の太陽崇拝とキリスト教の統合政策に圧迫されつつも、教会は太陽崇拝の頂点にある祭りを世の光であるキリストの受肉と誕生を覚えるキリスト誕生祭とする宣教的発想で吸収した。キリストは洗礼によって神になったのでなく、まことの神がまことの人として誕生したとの教会会議の決定は、従来のキリスト受洗を祝う顕現祭(エピファニー)よりも誕生祭に重さを与えた。
 しかし本書の視点は違う。「社会史」と言われる方法論に従い一般人に焦点をあてる。キリスト教国教化に伴い、異質の宗教的文脈を突如負わされた大衆だ。体制がかわっても彼らの異教的多神教的宗教観はすぐに変わらない。キリスト教改宗者たちは自動的に理想的信者とならないと考える。教会はこの事態に際し、一方で異教文化が教会内に流れ込む勢いに耐えつつ、他方で一般大衆をキリスト教に連れ戻す必要に迫られる。著者は、教会は異教徒的大衆をキリスト教に連れ戻すため不本意ながら異教にすり寄るかたちでクリスマスのお祝いを導入した、と仮説を立てる。
 社会的実力者の姿を映す文献は多いが、人民の生活感覚を知る資料は既知範囲外に求めなければならない。碑文や図像資料の掘り起こしという忍耐を要する作業を貫徹した著者のエネルギーは、本書の続編『他文化空 間のなかの古代教会』の出版に結実する。この好著により私たちは、宣教の視座を一般大衆の高さに据え直される。
 クリスマスは永遠で超越の神が有限な被造物に受肉された恵みの奇跡である。罪深い人間の歴史に埋もれ隠れているかに見える神の働きのリアリティを、信仰の眼で見つめ直したい。

 (評・正木牧人=神戸ルーテル神学校助教授・教務、西日本ルーテル西神教会協力牧師)


月刊『日々のみことば』 (400円税込)
       
                    
 かつて在日韓国人の集う教会の牧師であった趙南洙さんが、ハングルのできない2世、3世のために日本語に翻訳したのが「日々のみことば」誌の始まりだった。それが口コミで多くの教会にに広がり、執筆者もやがて日本人になり、現在に至っている。
 みことばそのものを読むというコンセプトのもとに、いたってシンプルな構成になっている。
 「毎日、みことばによって歩むことが、何よりも大切ではないかと思います」と趙さんは言う。
 「デボーションの大切さはだれでもよく分かります。でもそれを継続するのはとても難しいですよね」
信徒がそれをどのようにして継続していくのか。個人でデボーションを続けることは難しい。だからこそ、デボーションで教えられたことを小グループで分かち合う大切さを強調する。
 「分かち合いを通し、励まし合うことによって継続につながる。また同時に自分だけでなく、他者の証しを聴くことにより、より深いみことばの恵みを受けることができるのではないかと思うのです」と趙さん。

 問い合わせ 
 日々のみことば出版委員会
 神奈川県川崎市幸区南幸町2-34
 TEL044-541-1815



『戦争はまだ終わっていない』
  雨宮 剛編著 (自主出版、2000円税込)
       
                    
 12年前の雨宮教授の研究室で、学生との雑談から「青山学院の学徒出陣」について調べようと意気投合し始まったプロジェクト95。それは、青山学院という一つのキリスト教学校を通し、学校の戦争協力と戦争責任・戦後責任を明らかにする日本でも稀有な取り組みだ。各証言は、歴史に埋没させない時間との闘いだが、様々な論稿をもあえて掲載しているところに本書の価値がある。
 1985年にヴァイツゼッカー西独大統領は「過去に目を閉ざす者は、現在にも目を閉ざす」と演説した。敗戦後60年、過去に目を閉ざした結果、日本では戦争準備の法律が次々と制定され、新たな戦争に加わり、日本国憲法9条の存在はいまや風前の灯火となっている。そんななか、時代に流されず、「戦争はまだ終わっていない」との雨宮グループの警告は、預言者的視点で私たちに迫ってくる。
 第7章の青山学院高等部の英語入試で「ひめゆり学徒の証言を『退屈』と評する出題」がなされた問題は、沖縄の人びとの心を傷つけるものであり、平和への感性と人権感覚の欠如を意味する。主の前に悔い改めなければならない。
 しかし、これは青山学院だけの問題ではない。スウェーデン政府は危機感をもち、ナチスによるホロコースト(大虐殺)を民衆に伝えようと努力してきたが、日本政府は戦争の悲惨さや加害責任について民衆に伝える努力を怠っており、日本の教育の現状を表しているからである。
 「あとがき」では、アメリカ人B氏が貧しい雨宮青年を手助けする話に胸を打たれた。フィリピンの人びととの新たな出会いと奉仕にあるように、受けたものを神さまを通じて人々にお返ししようとする精神はこうして育まれたにちがいない。
 『青山学院史』シリーズ全7巻は、キリスト教学校のみならず、全国の学校や町の図書館に置いて学ぶべき書物である。青山学院の教授と学生たちが「地の塩」「世の光」としての働きをされたことに感謝せずにはおれない。

(評・小暮修也=明治学院高校教諭)


『キリスト教死生学諭集』
 熊澤義宣 著 (教文館、2625円税込)
       
                    
 アメリカのスーパーに行くと、「アソーテッド」と書いた大入り袋に入ったキャンディーをよく見かける。これは1種類の味ではなく、イチゴ、オレンジ、レモン、メロンなど、いろいろな味のキャンディーが一つの袋の中に詰められ、売られているものである。熊澤義宣氏の遺稿集であるこの本も、幾分そうした趣を持っている。
 本書の後書きでも触れられているのだが、この本は内容は2部構成で、若干タイトルである「キリスト教死生学論集」よりも幅広いものとなっている。しかし、それはこの本のフォーカスがぼけて散漫になってしまっているという意味ではない。むしろ前半のキリスト教死生学にかかわる部分と、後半の福祉の神学は互いに呼応する形で全体を構成しているのである。
 そして、あるものは一流の神学者としての氏の面目躍如たる精緻な論文であり、またあるものは新聞に連載されたもの、あるいは熊澤氏が行った講演やシンポジウムでの発題を書き起こしたものに若干の手が加えられたもので、著者が平易な言葉で読者に語りかける文章となっている。
 前者は例えば第1部の冒頭に置かれている「神学的死生学試論」や第2部の「ディアコニア学としての人間福祉」であり、第1部に収録されている「心病む人々の友となろう」や「二つの死――ソクラテスととイエス」などは後者にあてはまるであろう。これは熊澤神学の「アソーテッド」なのである。
 だから本のタイトルが難しそうだと言って敬遠する必要などない。とりあえず歯の立ちそうな読みやすいところから挑戦すればいい。氏の神学的死生学の深みに辿り着きたければ、そこから「硬派」の論文を読み進めよう。
 いずれの場合にも、熊澤氏の神学を味わうことができるはずである。生涯を通して氏が貫かれた「実践の知」は、すなわち病床の中から「十字架は病床の下にあるのだ」と語った氏の言葉は、心優しく、誰の胸にも届くものだからである。

(評・関谷直人=同志社大学神学部助教授)


『アダムの沈黙』
 ラリー・クラブ 著
 (いのちのことば社、2100円税込)
       
                    
 印象的な物語が紹介されている。教会で長老を務め、すべての良い行いの手本で、いつも祈り微笑を絶やさなかった父に、息子が自分の結婚関係の崩壊を告げる話がある。その時、父は2冊の信仰書を紹介し、エペソ書5章を読むようにと薦める。息子は叫ぶ。「でもね、お父さん。その本は2冊とも読み、エペソ書も何度も読んだ。僕が欲しいのは、もっとお父さん自身からなんだよ!」。父親は沈黙し、刺すような目つきに変わり、やがて立ち上がって何も言わず部屋から出て行った。その時初めて、息子は「父は弱い男なのだ」ということがわかった…。
 『アダムの沈黙』というタイトルは、創世記3章6節「それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫に与えたので、夫も食べた」から来ている。アダムはエバが蛇の誘惑を受けていた際、彼はその場にいながら、何一つ言葉を発していない。むしろアダムが言葉を発したのは、神から隠れたことの言い訳をし、自分の失敗は神と女のせいなのだと、責任転嫁をはかるためであった。著者は、男性が自分の深いところの感情を隠すために言う冗談も、理論的な防御壁で相手を屈服させようとすることも、そして暴力的な支配もまた男性の「沈黙」なのだと語る。
 幾つもの物語に触れる時、男性は自分の「物語」を繋ぎ合わされる経験に、感情が揺さぶられるだろう。任された責任から逃げ出した日、初めてポルノに触れたあの場所、愛する妻の言葉に耳を傾けることに疲れた夜、その繋ぎ合わされていく物語を前にし、一つだけしかない希望を見いだす。それは、私たちを男性として招いておられる「神の大いなる物語」である。読後、私たちをとらえるのは、明日から実践しうるマニュアルでも、軽やかな爽快感でも、体育会系的な興奮でもない。内側に生まれてくるのは、自らの「沈黙」を超えて、神に自分の人生を明渡そうとする「勇気」、神の大いなる物語を求めようとする「信仰」、そしてキリストのように語り始めようとする静かな「愛」だ。

(評・大嶋重徳=キリスト者学生会北陸地区主事)


『新約聖書のこころ』
 高柳俊一・加山久夫・加藤常昭・石川康輔 著
 (キリスト新聞社、4095円税込)
       
                    
 本書は1988年から89年にかけて出版された『聖書を読む』シリーズ1〜4、四福音書の合本で、著者はマタイ福音書から順に、カトリック司祭高柳俊一氏、新約学者加山久夫氏、神学者加藤常昭氏、カトリック司祭故石川康輔氏である。
 マタイ福音書については、イエスは信仰深い敬虔なユダヤ人として最後まで生き抜いた「義人」であり、人々にもその真の義を求めることを説き、該福音書が「貧しく乏しい者への福音」と解するのは、著者のユニークな視点である。それは、「山上の説教のリリシズムを文字通り実行したのはイエスその人」という表現にも現れている。
マルコ福音書については、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」がイエスのメッセージであると要約し、特に悪霊にとりつかれた人のいやしの項では、「社会が価値なき者、むしろ有害な者として排除していた一人の人にイエスは出会い、彼を神に創造された一個の人格として扱った」とのことばに慰めを与えられる。
 ルカ福音書については、緒論で該福音書のユダヤ教的な面に関する言及がないのは不足を感じるが、喜びの存在イエス、共に歩む者イエス、祈るイエスに焦点が当てられ、「失われた者へのメッセージ」が読者の心に響く。また、いわゆる放蕩息子のたとえ、不正な管理人のたとえ、ザアカイの出来事を「富」の脈絡で語っているのは興味深い。
ヨハネ福音書については、全章を要約的に網羅し、キーワードは「イエス」「信じる」「命」で、信仰の高揚を促すことがその目的であると解説する。書中の「会堂追放」への言及は、福音書著者の歴史的現実を反映し、「読者が自分の生きる時代と場所の現実にあてはめて読んでもよいし、読むべきであるということを教えているもの」は同感である。
 単行本発刊から合本まで十数年の歳月の流れはあるものの、多くの偽りの情報が飛び交う現代社会で、この福音書の真実のメッセージが現代人に届くよう願ってやまない。

(評・津村春英=大阪キリスト教短大教授、大阪日本橋キリスト教会牧師)


『キリスト者の時代精神、その虚と実』
 
渡辺信夫・岩崎孝志・山口陽一 著(いのちのことば社、1050円税込)
       
                    
 本書は信州夏期宣教講座第7冊目であるが、極めて興味深くかつ重要なテーマを扱っている。プロテスタントのキリスト者が「殉教」を問うということである。日本においては、カトリック教会がキリシタン時代に多くの殉教者を出した一方で、プロテスタント教会の殉教者はいないという。ただイエスが求められたのは、我々が十字架を負って主に従う「生き方」であり、その結果殉教に到る場合もあれば到らない場合もある。我々が求むるべきは、むしろ殉教をも念頭に置いた主の証人としての生き方である。そのような観点から、本書は殉教を論じている。
 キリシタン史の概観及び新渡戸稲造・矢内原忠雄(岩崎孝志氏)、そして柏木義円(山口陽一氏)についての興味深い歴史研究論文が収められているが、最も印象的なのは「殉教の復位」という渡辺信夫氏による実存的な講演論文である。
 諸外国では殉教者は敬意をもって扱われ、その後に続かんという心熱き信仰の応答がある。しかし渡辺氏は、日本では「そこまで行かなくてよいのだ、と思わせる」何かがあるという。「棄教して何が悪いか、棄教する者の弱さをキリストは受け入れてくださるという独特の非殉教評価が」あるという。文学では殉教者の哀れを情緒として扱い、また観光の資源にもなる。しかし日本のキリスト者は実存的に自分の存在をかけて殉教の問題にかかわらないという。
 キリシタン迫害は、キリシタンにとって誇りとはなっておらず、長崎浦上への原爆は天罰だと言われることもある(岩崎氏)。かくしてキリシタン迫害は日本精神風土のトラウマとなっており、殉教に正面から取り組むことによりこのトラウマの治療がなされねばならない。しかも殉教者を過度に賛美するのではなく、むしろ殉教も念頭に置きつつ、キリストを告白し、悪に抵抗するという道への回復を渡辺氏は的確に示している。
 神学的には、受苦の問題となるであろう。私は、これを「世の痛み」に対する「神の贖い的受苦」への「教会の参与」という方向への神学的展開(ローマ8章)で見るのが適切であると考える。

(評・藤原淳賀=聖学院大学総合研究所助教授)


『ヴォーリズ評伝』
 
奥村 直彦著(港の人、3780円税込)
       
                    
 滋賀県の片田舎にある小学校の取り壊しという、日常のニュースではめずらしくもない話題が全国版のメディアを賑わせたことはまだ記憶に新しい。その話題の小学校の設計者として「ヴォーリズ」という名が印象に残った。
 新しいものが次々に登場する時代に、なぜ古びた校舎の取り壊しがそんなに問題になったのか? しかし、そこに「ヴォーリズ」という名が登場するに至って話題はにわかに文化的な色合いを帯び、多くの人々の心をとらえたようだ。建物が単なる物体でなく、人々の原風景となり得る存在であることに改めて気付かされた出来事であった。
 ヴォーリズが日本に降り立ったのはちょうど今から100年前のこと。そして没後40年余を経た今もなお、彼の足跡は人々の心をリアルタイムで魅了し続けている。
 はからずも「建築家」として周知されたが、実はヴォーリズにはもっと壮大なドラマがあった。日本の社会においては起業家として、キリスト教界においては非常にユニークなミッション・プロジェクトを立ち上げた存在として1つの時代を築き上げたといっても過言ではない。しかもその遺志は今なお後継者たちに受け継がれている。
 本書は、これまで筋道をたてて語られてこなかったヴォーリズの生涯全般にわたる詳細をまとめた待望の1冊である。
 著者奥村直彦氏はヴォーリズの研究家であると同時に近代史の専門家でもあり、歴史的な背景を踏まえた客観的な視座からヴォーリズの生涯を見事にまとめ上げている。また、ヴォーリズの生涯に貫かれていた「信仰」というモチベーションがすべての源泉であったことを示し、ヴォーリズの人間的な魅力がどこから来るのかという命題に光を当てている。
 著者のヴォーリズ研究歴は以前から知られていたが、広く一般の読者が初めてその成果を手にすることができるのは、まことに来日100周年に相応しいと言えるだろう。

(評・芹野与幸=活齬ア社ヴォーリズ建築事務所経営管理室長、日本基督教団豊中教会員)


『俺、俗人牧師』
 
山守 博昭 著  (イーグレープ、1260円税込)
       
                    
 手塚治虫の虫プロダクションにいたユニークな経歴をもち、「俗人牧師」を自称する著者が、自らの生い立ち、アニメ漫画の世界でのこと、「インスタント・ラーメンを五十袋リュックに入れて横浜の港から」出発した20代の放浪旅行での体験、結婚後、牧師として歩みはじめてから現在にいたるまで、波瀾に富んだ半生を飾らない文章でつづった。「風に飛ぶもみがらのように」「さし込んできた陽の光」「小さな家族の頼りない船出」「俗人牧師の足跡」「終着駅(目的地)に向かって」の全5章で構成。各章節の最後には、聖書のみことばがそえられている。
 「ゴキブリの雨」「ぼ、ぼくらは少年探偵団」などのタイトルからも察せられるように、ふんだんにあるユーモアの中にも、ふと立ち止まって考えさせられるテーマがあり、福音が背景に裏打ちされている。
 著者が本書に込めた願いは、決して上から下に向かってではなく「かまえず、背伸びもせず、しかし愛を込めて」福音を読者に届けることだという。たとえば、本文中に出てくるクリスチャン用語には解説がつくなど、クリスチャンでない人でも違和感なく読めるよう心遣いがされている。
 表紙の「俺、俗人牧師」の大きなタイトル文字が目をひく、倉田明典氏の装幀もインパクトがある。身近な友人にさりげなく贈りたい1冊だ。【正村献三】



『文芸評論集』
 
富岡 幸一郎 著  (アーツアンドクラフツ、3990円税込)
       
                    
 三島由紀夫論などで若くして文芸評論家として認められた富岡幸一郎は、二十代の後半に内村鑑三の著作に触れた。それは回心に近い経験だった。
 内村のキリスト教は、贖罪・復活・再臨信仰に立つ、福音のダイナマイトを孕んでいる。現今流行の歴史的イエスやヒューマニズムのキリスト教ではない。富岡は、この内村とカール・バルトの信仰理解を基軸に、神の御前に立つ畏れをもちつつ、戦後現代文芸の批評を展開してきた。
 本書は、文芸評論書を読むことが読書の醍醐味のひとつであったころの至福を思い出させてくれる。
 第1部「現代文学の時空間」は、近代文学の終焉・転回点を1979年の村上春樹の『風の歌を聴け』とする興味深い仮説。
 第2部巻頭論文「『歴史』小説としての戦後文学」では、『ドイツの悲劇』を著したマイネッケのような歴史家が不在の日本で、大岡昇平などの小説家が担った課題を検証している。
 つづいて小林秀雄・大岡昇平・埴谷雄高・三島由紀夫・江藤淳らが取り上げられている。信仰的に近いとされた小林・大岡に少し厳しく、反キリスト的な三島・江藤に寛大な印象を受けた。いつか小林の『本居宣長』論をうかがいたい。
 論者は、大岡は青山学院中等部時代に、実は洗礼を受けていたと思う。解決をつけ離れたはずの信仰なのに、「神の眼」は終生大岡を吟味し続けた。あるいは、棄て置かれたに等しい極限状況の戦場の意味を「神」に訴えた文学ではないのか。
 3部は「村上春樹と全共闘世代」。全共闘世代をめぐって、珍しく同時代の批評家と作家を根底的に批判し抜いている。
 本書は、4部の「戦後短編小説再発見」講談社文芸文庫解説集から読んで頂きたい。作品の選からかかわった「もう一つの正統文学史」である。特に田中小実昌論・阿川弘之論・森内俊雄論は圧巻である。いまだ聞いたことのない明晰さの評言である。近著に『聖書をひらく』(編書房)がある。併せて読まれたい。

(評・大田正紀=梅花女子大学教授)



『宣教師が見た天皇制とキリスト教』
 
ジョン・M・L・ヤング 著
 (燦葉出版社、1575円税込)
       
                    
 私が本書に接したのは最近のことである。しかし原著を愛読し、講演などで内容のすばらしさについて報告し、訴え、今日に至っている。韓国の大学で靖国神社問題について講演をした後、大学の図書館に連れて行かれた時の担当教授の言葉を、私は今も忘れていない。「西川先生ならきっと読みたくなる本です。1冊差し上げましょう」と。そのタイトルは、“THE TWO EMPIRES IN JAPAN Recond of the Church State Conflict(日本における2
つの帝国 教会と国家の苦闘の記録) ”だった。しかも、著者のサイン入りだった。その名はジョンM.L.ヤング。1978年9月27日のことである。
 翻訳された本書のタイトルは『宣教師が観た天皇制とキリスト教』とされている。発行は2005年7月30日となっている。著者が宣教師でありつつ、なぜこのようなタイトルの本を出したのかを解く鍵は、次の一文にある。「1905年より1950年にかけて、朝鮮と日本において救い主キリストの福音を宣べ伝えるために命を捧げた両親の思い出に捧げる。『神の言葉とイエス・キリストの証しのために』」。そして、扉の御言葉が「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい」(マタイ23・21)である。
 つまり本書は、カナダの長老教会の宣教師の家庭に生まれ、1941年まで、中国、満州で宣教師として働き、戦後日本へ。そして四日市教会を開拓、1966年に米国へ。1981年来日し、東京で宣教を再開。82年の生涯を全うし、1994年に召天されるまで、神道国家主義とキリスト教との相克の歴史を、歴史の証言者として宣教師の立場から訴え、警告した書物である。2005年に第2版が公刊された意味は想像以上に大きい。
 戦争への道を直進した1930年代に、伊勢神宮参拝を拒否し、日本中を震撼させた美濃ミッションの信仰の戦いの記録その他を、有事体制化の今、改めて自らの課題として熟読されることを勧めたい。

(評・西川重則=「政教分離の会」事務局長)



『泣きながら夜を過ごす人にも』
 
冨永 國比古 著
 (キリスト新聞社、1500円=税込)
       
                    
 本書には性の世界で傷つき痛む人々の呻きの声が記されている。著者はクリスチャンであり、一般の週刊誌にもしばしばその論説が掲載される産婦人科医・心療内科医だ。
 本書のテーマは性についての「罪」ではなく「傷」である。従来、言及されることの少なかった性的な傷に福音の光が当てられたという点でも本書は先駆的であり、一読の価値がある。
 日本社会は極めて無思慮に「性の自由化」を受け入れた。その結果、規範なき性的自由は私たちに解放を与えるどころか、かえって多くの人々を性的な傷の支配下に閉じ込めた。
 中絶経験、性的虐待、ポルノなどによって性は人格や愛から切り離され、暴力と結びつけられる。そうした性的暴力が人をどれほどまでに深く傷つけ、その後の人生を著しく歪めてしまうか! 本書は豊富な事例と確固たる学術的な根拠を伴ってそのことを訴えかける。読者はまず、その事実自体に少なからぬ衝撃を受けるだろう。
 しかし、このような深刻なテーマを扱いながらも、読者に暗澹たる思いをいだかせないところにこそ本書の真価がある。それは著者のキリスト教信仰によるものだ。
 著者は各所において絶望的な現状の中にも一筋の、しかし力強い希望の光を提供している。それはいかなる深い性的な傷にも届き得るキリストの癒しの御手である。まさにタイトルの通り「泣きながら夜を過ごす人にも喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」(詩編30・6、新共同訳)お方を本書は明示しているのだ。
 残念ながら、日本の牧会現場においては性的な傷が扱われるケースは少なく、当事者が心の内に秘めていることが多いように思われる。それだけに、性的な傷に苦しむ当事者はもちろんのこと、牧会者やカウセリングに重荷を持つ方には必読の書である。
 また、学校における性教育に疑問や不安をお感じの方、さらにはキリスト教界のみならず一般の教育、医療に携わる方にもお薦めしたい。

(評・水谷 潔=小さないのちを守る会主事)


『神学と牧会カウンセリング』
 
ジョン・B・カブJr著
 (日本キリスト教団出版局、2520円=税込)
       
                    
 本書は、現代の日本のキリスト教界にとってタイムリーなテーマの本と言えるでしょう。現代のクリスチャンが抱える問題が複雑化し、牧会者も今までの手法では十分なケアをすることが難しいことに気付いているのではないでしょうか。
 しかし、心理学やカウンセリングを活用することができないかという思いがある半面、聖書以外の手段にはアレルギーがあって、牧会現場では聖書との関係をどのように理解したらよいのか迷っている牧会者も少なくないのかもしれません。
 著者は、カウンセリングの専門家による効果的な手法を否定するならば牧会者の職務の質は劣ったものとならざるを得なくなる、かといってむやみに受け入れるならばキリスト教の特徴は現れなくなるという認識に立ち、神学と心理学を対立的にとらえるのではなく「中庸的」な立場に立っています。著者は心理学に対抗したり妨害したりすることなく、「神学がいかに牧会カウンセリングを形成することが可能であるか」をこの本で論述するのです。
 しかし、著者の神概念は「非―実体」であるため、神はこの世界の中で見いだされなければならず、罪についても再解釈をし、疎外や防御性等に置き換えて現代に適用します。神学についても心理学と同等に扱い、心理学の理論体系に翻訳してしまうのです。心理学を含めて罪のゆえに一般啓示を通して導き出される真理は歪んでおり、特別啓示である聖書(神学)を通してチェックすることが不可欠です。
 しかし、神学を心理学の理論体系に翻訳するならば、神学の本来の役割を失い、著者が目指している、一般啓示である心理学から「キリスト教の特徴が現れる牧会カウンセリングを形成する」ことは不可能ではないでしょうか。著者が強調するように神学は牧会カウンセリングの形成には不可欠なのですが、神を実体のある絶対的な存在とした神学が前提でなければならないのです。
 これらの事を念頭において読んでみてはいかがでしょうか。
(評・丸屋真也=(財)ライフプランニングセンター研究教育部長、臨床心理ファミリー相談室長。臨床心理学博士/牧会学博士)


『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』
 
マーク・R・マリンズ著
 (トランスビュー、2310円=税込)
       
                    
 まず、『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』という書名に虚を衝かれる。日本のキリスト教界が、西欧的キリスト教を批判しながらも、西欧的キリスト教の視座から批判して、視野の外においてきた日本独自のキリスト教の展開がある。
 米国籍で日本在住20年の宗教社会学者である著者は驚きの目でそれらを見、読者に「西洋人宣教師のキリスト教」から目を転じさせ、「真の世界の宗教」に目を開かせようとする。なるほど、忘れていた視点である。
 著者は、日本社会の宗教的土壌と日本のキリスト教の歴史を考察したうえで、内村鑑三の無教会運動に目を止め、それを日本製キリスト教の源泉ととらえる。そこから道会、基督心宗教団、イエス之御霊教会、聖イエス会、原始福音・キリストの幕屋の展開を見ていく。いずれも、欧米の教派教団の枠内で形成されてきた日本の教会が異端視するか無視してきたものだ。したがって、「誤り」を指摘する小冊子はいくつか存在するが、積極的に研究の対象としたものはほとんどない。
 著者は、日本人の目の届かないスポットに光を投じ、その反射光で日本におけるキリスト者・キリスト教の抱える諸問題を照らし出す。そこには、精査されていない荒っぽさがあるものの、日本のキリスト教界の現在の病巣までもえぐり出すような勢いが感じられる。宗教的諸現象の中に宗教展開や教団盛衰の経緯や原因を見いだしていく宗教社会学の視点である。
 神道や仏教・無神論・進化論には大きく目を開いてきたものの、「同じ」キリスト教の枠内(それを枠外に追いやって)にある運動にはまったく目を向けてこなかったが、そこに日本宣教のヒントが隠されているとも考えられる。
 本書は、単に所収の運動について紹介するだけではない。日本のキリスト教の歴史の表面ではなく、その深みを知らせるものでもある。本書には、日本の地で日本人を対象に宣教しようとする者が顧慮しなければならない点が多く含まれている。それらを読み取って、日本のキリスト教の新しい展開に資してほしい。

(評・櫻井圀郎=東京基督教大学教授)


『キリスト教と日本人』
 
古屋安雄 著
 (教文館、2310円=税込)
       
                    
 キリスト教ということで言えば『キリスト教の現代的展開』『現代キリスト教と将来』の著書があり、日本ということで言えば『日本の神学』『日本の将来とキリスト教』『日本のキリスト教』などの著者である。つまり、『キリスト教と日本人』を語るのに、古屋安雄をおいてありえないということになる。
 期待に応え、博識な洞察からもたらされる広さと深さに満ちた文章満載である。
 副題として「『異質なもの』との出会い」となっている。「朝日新聞」夕刊の「自分と出会う」欄に掲載された文から取ったものであるが、その中にこう記されていた。
 「人間は自分と異質のほかの人と出会ったときしか、本当の自分とは出会えないのではないだろうか」。その如く、異質のほかの人と出会うことによって、日本人キリスト者は信仰と自己を確立していくのではとの実例を語っていく。いずれも興味津々である。
 特に新渡戸稲造に27頁、羽仁吉一に50頁を割いている。
 新渡戸については武士道のみならず、実はデモクラシーと結びつく「平民道」主唱者であることこそ本懐だと目を開かせる。
 羽仁については著者の出身、自由学園の創設者羽仁もと子のかげにあって、日本に対する愛と責任感と戦争中、時局に抵抗できなかった限界について温かく、しかし厳しく描く。
 そのほか、「キリスト教と周囲の人々」や「セイント・ジョンズに居た日本人教授」に登場する人との味わいある列伝、さらには隅谷三喜男、賀川豊彦についての論説も重い。
 戦後60年にあって「ヒトラーを支持した神学者たち」「親米派キリスト者の戦争協力」の文章は忘れてはいけない歴史に目を向けさせられるし、「中国と韓国のクリスチャン」との一文も見逃せない現実を教えられる。
 著者のグローバルな時代を生きる実践としての「アジア学院」での創造的な奉仕は、読む者に課題と使命感と希望を与えずにおかない。

(評・山北宣久=日本基督教団聖ヶ丘教会牧師)


『終末論入門』
 
G・ザウター 著
 (教文館、3675円=税込)
       
                    
 終末論の大きな流れを見通すのに良い書である。近代以後、現代までのほぼ100年の終末論に関する議論を、カトリック教会も含めて包括的に取り扱っている。  
 ザウターは、終末論を三つの類型に区分する。[1]「最後の事柄」についての教説(最後の審判など)、[2]歴史の神学(歴史の目的論など)、[3]徹底的終末論(実存的終末論など)である。そしてさまざまな終末論を、三つの類型との関係において、年代順に概観する。  
 取り上げられている主なものは、リッチェルの自由主義的な「神の国」理解、A.シュバイツァーの「首尾一貫した」終末論、ドットの「現実化した」終末論、バルトの「永遠の神」の「超時間」性、ブルトマンの「実存的」終末論、クルマンの「救済史」、パネンベルグの「普遍史」、モルトマンの「希望」の神学、「解放の神学」、ラッツィンガー(新教皇ベネディクト十六世)の「司牧的」・個人的終末論などである。
 著者によれば、終末論の重要性は、聖餐論と牧会カウンセリングにおいて明らかである。「主が来られるときまで」続けられる聖餐の終末論的な意味を明らかにし、「肉体の復活」という希望を与える終末論の牧会的な役割に注目する必要があると言う。  
 さらに終末論におけるキリスト論の重要性を指摘し、終末論のもつ実践神学的な意義として、[1]「希望」を与えキリストを待望させること、[2]神の「約束」に基づくこと、[3]日ごとにキリスト者が新しくされること、をあげる。的確な指摘である。  
 しかし果たして三類型は有効な区分だろうか。境界があいまいであるし、例えばA「歴史の神学」には、啓蒙主義的な進化論、政治神学、ファンダメンタリズムまでもが含まれる。また終末論のもつ意義を聖餐と牧会という領域にのみ認め、鋭い洞察力によって現代世界に警鐘を鳴らすという預言者的な役割への言及がないのは、不十分である。  
 訳文がドイツ語の直訳調で、読みやすいとは言えないのが残念である。

(評・岡山英雄=日本福音キリスト教会連合東松山福音教会牧師)


『キリスト教帝国アメリカ』
 
栗林輝男 著
 (キリスト新聞社、2520円=税込)
       
                    
 本書は、ブッシュ大統領の信仰や宗教右派やネオコンの状況を、様々な情報を分析することによって丹念に読みとろうした努力の成果である。  
 私もアメリカ滞在中、9・11のテロからイラク戦争に至る時期にアメリカの教会の動向を追おうと、資料を収集して日本にレポートを送った経験がある。刻々と移り変わる状況や乱れ飛ぶ情報を取捨選択しながら、アメリカがどの方向に進んでいるのか見極めるのに、多大なストレスを感じたのを覚えている。
 そういう意味で本書を完成させるための努力は並大抵のものではなかったと思うし、最近のアメリカの政治と宗教がどのように絡み合いながら動いているのか知りたいと思っている人にとって、本書は大きな助けとなるだろう。
 本書は、アメリカが帝国主義を志向しており、ブッシュ大統領の「帝国の神学」がいかにそれを助長しているかを論じている。そしてそれを明らかにするため、ブッシュ大統領の宗教的な言動や、ホワイトハウスがいかに宗教右派やネオコンの人脈によって牛耳られていったか、その経過を詳細に追っている。
 また著者は、ブッシュ大統領の神学を「マニ教主義の異端」と断じ、安易な善悪二元論によってイラクに侵攻していった姿勢を批判している。終末論に沸き立ちながら大統領を支持するアメリカの保守的なクリスチャンたちの考え方を、小説『レフトビハインド』等のポップカルチャーを通じて紹介することも忘れていない。
 ただ、本書を読み進めていくうちに気になったのは、著者の思い入れが強くなりすぎ、アメリカがブッシュ神学一色になっているかのような印象を与えている点である。また新聞や雑誌記事、インターネット、人気小説といった一時的で短命な情報源に頼りすぎることによって、本書の指摘するアメリカの保守化とその危険性が長期的な妥当性をもつものなのかどうか、判断し難くなってしまっているように思える点である。

(評・渡辺 聡=日本バプテスト連盟渋谷バプテスト教会牧師)


『旧約聖書概論』
 
石原 潔 著
 (日本ホーリネス教団出版局、3150円=税込)
       
                    
 旧新約聖書六十六巻を神の言とする保守的な立場から旧約聖書を概観するのに、よい手引き書が出版された。
 著者は東京聖書学院の院長・教授という多忙さと重責のうちにある。本書の内容は、当該学院でのクラス授業に由来するとのことである。特徴は旧約各巻について、現行翻訳聖書の上での位置づけが重視して扱われ、全体としては神の救いの歴史を提示するという印象を強く与えている。
 また各書の著作目的、鍵となる語句の解説、内容の区分などが授業で板書されたものと思われる図表を多数用いて分かりやすく大胆に提示されている。加えて、入門書としての限界はあるものの、批評学における多様な見解についても紹介されているので、読者には便利である。
 保守的な立場からこの分野における出版が希少であることを考えると、テキストとしての利用価値はかなり高いと言える。多数の方々によって実際に読まれるように推薦したい。
 ただ少し批判的に読むならば、現行の翻訳聖書の順番と配列に固執するあまり、原典へブル語聖書の「トーラー」「預言者」「諸書」という枠組みの意味と本質、その神学的価値が無視されているように思われるふしがある。諸書であるルツ記がトーラーの申命記よりも優先するかのような文章(84、85ページ)や、哀歌をイザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書、ダニエル書の中核として重視するとらえかた(210ページ)などの点である。
 原典聖書を重んじる立場の評者からすると、少し強引すぎるように思われる。
 本書中にへブル語の原語がかなりの数、挿入されて印刷されているが、ミスプリントが散見される。たとえば人名エゼキエル(224ページ)や、動詞の母音符号などがかなり不正確である。再版される際には修正を期待したい。また今後さらに旧約聖書の緒論ないし総論の分野についての出版も引き続いてなされることが願わしく思われる。

(評・石黒則年=大阪キリスト教短期大学教授)


『プロテスタント教会の礼拝 その伝統と展開』
 
J・F・ホワイト 著  越川弘英 訳
 (日本キリスト教団出版局、6090円=税込)
       
                    
 著者は米国の代表的な礼拝学者であり、主著の『キリスト教の礼拝』、『キリスト教礼拝の歴史』が近年続けて翻訳された。3冊目の邦訳となる本書は1989年に出版され、90年代以降の礼拝改革に影響を与えてきた名著である。
 ホワイトは、従来の礼拝学が式文の研究、ことに聖餐式文の歴史をたどる方法に集中してきたと指摘し、それではプロテスタント礼拝の現実を把握できないと言う。プロテスタントの多くは印刷された式文を用いず、聖餐を中心とする礼拝も行ってこなかった。むしろ聖餐式文には現れてこない部分にこそ注目すべき要素があるのである。
 そこでホワイトが用いる方法は、礼拝という現象を7つのカテゴリーで分析することである。7つとは会衆、信仰行為(パイエティ)、時間、場所、祈り、説教、音楽である。礼拝に関する規則でなく、生きた人間たちが礼拝で実際に何を経験してきたのかを、著者は驚くほどの博識をもとに、生き生きと描き出す。「会衆に敬意を払う」という方法論が、礼拝の多様さを肯定的に理解する姿勢をもたらしている。
 中世後期のミサ典礼を始点として踏まえた上で、時間軸に沿ってルター派、改革派、再洗礼派、アングリカン、分離派とピューリタン、クェーカー、メソディスト、フロンティア、そして20世紀に生まれたペンテコステと、9つの礼拝伝統の特質が歴史的に解明される。いかなる教派に属する読者であっても、自分の礼拝習慣がどのような過去に由来するかを発見し、継承している特質の再評価へと導かれるに違いない。
 同時に、同じプロテスタントにもこれほどの多様性があるのかと驚きを覚えるだろう。礼拝の形に永遠不変のものはなく、唯一絶対のものもない。特にプロテスタントは、伝統に根ざしながらも、新しい時代に新しいものを生み出す開拓者としての役割を担っている、と著者は言う。福音を豊かに表現する礼拝を求めていくために、歴史の中での伝統の展開を示す本書をお薦めしたい。

(評・荒瀬牧彦=カンバーランド長老キリスト教会めぐみ教会牧師)


『愛されるために生まれたのにね。』
  内越言平 著
 (アイシーメディックス、1470円税込)

       
                    
 著者は、虐待などに苦しめられる子どもたちを救うために活動する「チルドレン・レスキュー・ミッション」の代表。これまで接してきた子どもたちの実話のエピソードをもとに、現代社会で虐待などに苦しむ子どもたちの心の叫びを赤裸々につづるほか、子どもの素晴らしさや、夫婦のあり方にも触れている。事実から目をそらさずに直視し、親の役目を見つめ直すために、すべての大人たちに読んでもらいたい1冊。
−0歳から20代へのペアレンティング−
         聖書が教える親の道』
 
ダン・ギルクライスト 著 辻 潤訳
 (ホームスクーリング・ビジョン、1680円税込)

    
                       
 「すべての父親と母親は、子どもを育てるためのチーム」と述べる本書では、親だけが子どもに与えることができる「愛」「教え」「懲らしめ」についてわかりやすく指導、解説する。また親と神との正しい関係の重要性を説き、子どもの創造者である神に対する責任を明確にしている。神が親に与えた教育の原点、「聖書」から「親の道」を探り、すべての親、祖父母、教育関係者必読の1冊。


『それでも神は実在するのか?』
 
リー・ストロベル 著
 (いのちのことば社、2100円=税込)
       
                    
 この世に悪があること、自然法則に反する奇跡、合理的に見える進化論、旧約聖書の残虐な事件、「キリストのほかに救いなし」とか「キリストを信じなければ地獄に行く」と言うこと、宗教裁判・十字軍・宗教戦争・魔女狩り・南米の征服などの歴史……、求道者に信仰決断を躊躇させ、信仰者に疑念を抱かせかねない事実や事件だ。
 神学的にそれらを説明するのはそれほど難しいことではない。しかし、躊躇している求道者や信仰に疑問を感じている者を納得させようとすると、なかなか困難だ。理性と信仰を対立させ、ただ信じることだけを教えてきた教会の弱点でもある。
 著者は、ビリー・グラハムを超えるのではないかと目されていた伝道者テンプルトンがキリスト教を批判する側に転向したことを発端に、この問題に関心をもつ。もともと報道人であった著者はテンプルトンに会見し、いくつかの点で同感を覚え、前記の7点に「疑いをもったまま信仰者でいることは可能か」という問題を加えた「8つの難題」を掲げ、取材を重ねてこの問題と取り組んでいる。
 疑うことは罪であるかのように言われ、心のうちでは多かれ少なかれ疑問を感じながらも口に出すこともできず、表面上は完璧な信仰者を装ってきたのではないかと思われる多くのキリスト者に、一読をお勧めしたい。疑いを否定するだけではかえって疑いが深まり、信仰の危機を招いてしまう。むしろ、疑問は疑問として出して、疑問の解決を図ることが大切だ。表立っては語り難い、その問題に個人的に対処するには良い教科書となろう。
 ただ、米国人を対象に書かれたものなので、日本の実情にそわない点も多々あり、政治・社会問題やキリスト教史問題での米国びいきは気になるが、その点は了解事項として読むほかない。いくつか、神学的には問題となりうる点もあるので、それぞれの立場の神学書によって補充することが求められよう。原書は分からないが、一部用語の不統一や神学用語の翻訳に気になるものがある。

(評・櫻井圀郎=東京基督教大学教授)


『象徴天皇制と人権を考える』
 
今村 嗣夫 著
 (日本キリスト教団出版局、998円=税込)
       
                    
 本書は、今村弁護士が日基教団社会委員会で講演されたもののブックレットです。講演口調がそのままになっているので、この種の問題を苦手としておられる方にも読みやすくなっています。論点は明快で、教会の読書会のテキストとしても有益かと思います。
 著者は「自衛官合祀拒否訴訟」等々の人権訴訟に献身的にかかわってこられました。私は個人的には、自衛官合祀拒否訴訟で「宗教上の人格権」という切り口が表明されたことで、信教の自由理解に大きな助けを得た経験があります。恐らく著者はこれら弁護活動を通じて、この国は国民の信教の自由が保障され過ぎると、この国の制度が抱える矛盾が露見すると考え、信教の自由保障を制限している−−そう考えておられるのではないでしょうか。その制度的矛盾の根幹にあるのが、実は本書が述べる天皇制なのです。
 戦後、「天皇主権」の旧憲法が廃止され、「国民主権」を謳う新憲法が公布されます。ところが天皇制は連合軍の占領政策として存続することになります。それが国民主権を貫くのを困難にする憲法の二重構造の原因になったのです。「日本国憲法第一章の天皇は、『国民主権』原理と『天皇制』との妥協の産物なのです」。著者はその妥協が憲法条文相互の矛盾を生み出していると解説します。
 具体的には、天皇は世襲制で、憲法上の主権在民と異なる領域の存在になっており、そのため国事行為の制限を越えた天皇の公的活動についても、国民は暗黙裡に了解する羽目に陥り、また天皇を相手に裁判権を働かせることもかなわないのです。こうした存在が国民統合の象徴でなく国民を統合する象徴として利用されるのを恐れます。
 近年「君が代」の君は天皇であるとの政府見解が示され、その上でこれを歌うことが強制されています。著者が言うように、これらによって国民の主権意識が希薄化され、結果国民の誰もが無意識に天皇の臣民にならないか、危惧します。本書はその点を警告しています。

(評・池尻良一=福音交友会貝塚聖書教会牧師)


『神の科学』
 
A・E・マクグラス著
 (教文館、2730円=税込)
       
                    
 この6月に札幌郊外でもたれたアジア神学協議会韓日合同神学会議で、福音主義に立つ韓日の複数の発表者がA・E・マクグラスの名をあげていた。このように、最近、特に注目されている神学者の1人であり、その邦訳も既に10冊を超えている。彼自身の立場は福音主義的であることは公知であるが、その主張はキリスト教の他の立場に向けて広く発信されている。
 本書は『The Science of God: An Introduction to Scientific Theology』(T & T Clark, 2004)の全訳で、すでに2001年から2003年にかけて出版された『科学的神学』(A Scientific Theology)全3巻をよりわかりやすくした入門書である。従って、序と結論を除けば、プロレゴメナ、自然(Nature)、実在(Reality)、理論(Theology)のように、3巻本と同じ構成になっている。なお、原著は表紙に「神」が大書されているのが特徴的である。
 概観すると、分子生物学者でもあるマクグラスはキリスト教神学と自然科学の間の相互作用を取り扱う。彼の科学的神学は創造の教理(自然は神の被造物)を強調し、またバスカーの批判的実在論を援用する。さらに、自然科学の「理論」はキリスト教神学の「教理」に相当し、自然科学では世界を説明するためにモデルや類比を用いるように、科学的神学にも有用であるが類比の限界と相互依存性を考慮する。宇宙論研究者と進化生物学者が由来と過程を研究するように、科学的神学はキリスト教の伝統の発生とその展開を明らかにすると説く。
科学とキリスト教の相互関係について、理論物理学者で英国国教会の司祭ジョン・ポーキングホーン(『世界・科学・信仰』みすず書房、『自然科学とキリスト教』教文館)や、教義学者トーマス・F・トランス( 『科学としての神学の基礎』教文館)の説を踏まえ、ここに科学的アプローチの斬新な神学方法論を提示している。訳者のねらいにもあるように、神学専攻者だけでなく、諸科学の研究者など多くの人々にぜひ読んでいただきたい1冊である。

(評・津村春英=大阪キリスト教短期大学教授、大阪日本橋キリスト教会牧師)


『教会とは何か?』
 
D・M・ロイドジョンズ著
 (いのちのことば社、1050円=税込)
       
                    
 本書は、20世紀の英国最大の説教者D.M.ロイドジョンズの2つの講演を、鞭木由行氏がテープから起こし訳出したもの。1つは「教会論」に関する講演、もう1つは「説教」に関してである。
 「教会論」の講演においては、混迷する「教会」の理解を巡って、その問いに答えるべく、適切にも、教会の原点であるペンテコステの出来事(使徒2章)に立ち返って、その本質を説き明かす。それは徹底的に聖書主義の講解説教である。説教の優位性、認罪、悔い改め、新生、教理の優先性、御言葉への渇き、聖餐と祈り、伝道、喜びと賛美、これこそが初代教会の要素。教会がこのペンテコステの原点に立ち返らなければ、そこに内在する力と役割を見失い、委ねられた責任を果たす可能性は皆無となる。
 新しい形で再燃しつつあるエキュメニズムにも警鐘を鳴らす。交わりの強調が招く教理の軽視は教会をかえって骨抜きにする。教会論が正しく据えられなければ、伝道すらも有害無益となる。そして、真の意味でのリバイバルへの渇望こそ教会論に関わる重大事項であると語る。
 「説教」に関する講演では、その精髄について述べられている。説教を論じる最近の多くの著作や講演にもかかわらず、これほど簡潔でしかも深遠な説教論を知らない。ロイドジョンズは、講演から説教を切り離し、更に英語表現のサーモンからプリーチングを取り分ける。ほとんどの説教者はサーモンをするが、プリーチングをしてはいない、という。個々の命題的な定義はない。幾つかの例証によりそれを感じ取らせようとする。確かにそのような区別が存在する。そして説教がいつかプリーチングになることを祈らされる。教会史に精通したロイドジョンズにとってジョナサン・エドワーズやホイットフィールドが教師である。  
 説教の衰退の原因が究明されると共に、真の説教がもつ魅力が述べられ、講壇に立つ者を奮い立たせる。同著者による『説教と説教者』という大著と合わせて一読をお薦めする。


(評・遠藤嘉信=日本同盟基督教団和泉福音教会牧師、聖書神学舎教師)


『よく生きる人を育てる』
 
羽仁 翹 著 
  (教文館、1575円=税込)
       
                    
 いつごろから日本はこんな国になってしまったのだろうか。人間がいろいろなデータで数値化され優劣をつけられてしまう。わずかなペーパー・テストの点数の差で人が区別され、時としてレッテルを貼られてしまう。
 もちろん明治の昔から、学歴が幅を利かす社会になり、入学試験など人が競い合う時にはテストは重要な選別の手段ではあったが、ここ数十年の傾向のように、数字で人間の価値まで決められてしまうような極端なことはなかったように思う。
 そんな感慨を抱いていた私は、本書に接し、そのサブタイトル「偏差値ではなく人間値」に強く惹かれたのである。「人間値」とは耳慣れない言葉ではあるが、日常の生活の中にあり、点数では表せないたくさんのもの、たとえば愛・感謝・協力・いたわりなどという「目に見えない力」は数値化できないが、それを大切なものとして受け止める価値観をもつ人間の力を指しているようである。点数で表すことのできないものの重要さを改めて認識したいものである。
 本書は、自由学園が創立以来貫いてきたこれらの教育理念を改めて紹介しながら、現在の日本の教育に欠けている諸点を鋭く指摘している。とくに、数多くの生徒や保護者の言葉を引きながら具体的な事例を示しているところはわかりやすく、引き込まれるものがある。私は各人に与えられている能力をフルに発揮し、他者のために尽くす人間性豊かな人の育成が今日本の教育に求められている最大の課題だと信ずるのであるが、特に賛同できるのは「宗教性の涵養」を主張されているところである。昨今の近隣諸国との摩擦は、日本の指導者たちに世界に通用する宗教性が著しく欠如している結果であり、現在の日本の教育に一番欠けているところだと痛感しているからである。
 本書は、目で見えるもの、点数化できるものだけに価値を求めてきた昨今の教育のあり方に警鐘を鳴らす大切な一書であり、ぜひ多くの方に一読してほしいと願うものである。

(評・峰田 将=聖学院中学校高等学校校長)



『聖書が教える恋愛講座』
 
ジョシュア・ハリス 著 
  (ホームスクーリングビジョン、1680円=税込)
       
                    
 原題の『I KISSED DATING GOODBYE』は、「デートに別れを告げた」という意味らしい。アメリカのデート文化に育った著者が「デートをやめる決心」をし「何のために親密な恋愛関係に入っていくか?」と問い、互いに対する献身という「結婚の備えができるまでは恋愛関係に入るのを待つ」のが賢明と言う。その理由もしっかりとした内容でうなずける。
 デートと恋愛を当たり前のこととしていたころ、情欲と不純で自己中心的な思いに満ちていた現実を率直に告白する誠実さにも好感がもてる。
 「つきあうこと自体は必ずしも悪ではないが、いま僕たちが知っている『恋愛』というシステムは、自己中心と不道徳を称賛する文化から生み出されたもの」と注意を促し、多くのクリスチャンの男女が性的関係、あるいは一線は超えないまでも肉体的接触へと深入りしてしまう実例を挙げ、その危うさも具体的に示す。「僕らクリスチャンも、この国の文化が持つ自己中心的な考え方を取り入れているのだ。もちろん…僕らはある歯止めをもって考えてはいる。だが、…同じ道の数歩後ろにいるというだけ」と指摘する。
 結婚前に性的関係に入りさえしなければ良い、という問題ではなく、「恋愛関係にはいらなくても、以前よりずっと女性を愛せるように」、そして「神から教わった真実な愛し方で」「十字架に示された神の愛によって、異性を愛することができるように」と真剣に求めている著者の思いを随所に垣間見ることができる。
 「恋愛反対論者」と冷やかされ、ハリウッド・スターと共にトーク番組に出演したエピソードもあり、一般メディアも取り扱うほどアメリカで注目されたらしい。
 KGK(キリスト者学生会)の働きで青年男女にかかわる者として、恋愛至上主義や快楽主義に翻弄されやすい現実にある彼らに、ぜひ読んでもらいたい! また年ごろの娘をもつ親にも、その娘にもぜひ読んでもらいたい、と思う1冊!

(評・高木 実=キリスト者学生会/KGK関西地区主事)


『スモールグループから始めよう』
 
ヘンリー・クラウド、ジョン・タウンゼント 著 
  (地引網出版、2100円=税込)
       
                    
 今日、福音が広められ、教会が生き生きと伸びていく運動として、世界的に用いられている働きの1つがスモールグループ、セルグループです。評者はこの働きに強い関心があり、私たちの教会の中で具体的にセルグループの「お試し版」として始めている時に本書と出合いました。
 2人の著者は心理学博士であり、名著『境界線 バウンダリーズ』の著者として知られ、聖書の教えにしっかり立ちつつ20年間もスモールグループに実際にかかわってきた体験があり、スモールグループにおける人間の動きを生き生きさせていく点ですばらしい知恵をもっています。
 特に著者が念頭に置いている重要な読者は、@牧師やスモールグループ活動の監督者で、グループリーダー訓練用の簡単な教材を必要とする人、Aスモールグループのやり方を学んでリーダーとして用いられたい人です。
 そして、その人々の「やり方を教えてください」「どうすればスモールグループのプロセスを生かすことができるのですか」との問いかけに答える視点から、「牧師や監督者がスモールグループのリーダーのために必要とし、そのリーダーたちが口を揃えて最も必要だと言うもの」「人の人生を変えるスモールグループを実践する方法」が書かれています。
 本書は、第1部が「人を成長させるスモールグループの働き」、第2部が「良いグループで起こること」、第3部が「スモールグループを始めるにあたって」、第4部が「世話役の責任」、第5部が「参加者の責任」、第6部が「グループの問題に対処するには」で構成されています。
 この書は、スモールグループ活動を活性化させるものとして、実践的にとても役立つ内容が多く含まれています。
 聖書に裏打ちされた本書の実際的な助言は今後、多くのグループリーダーたちの助けになるものと確信しております。

(評・白畑司=保守バプテスト同盟市ヶ尾キリスト教会牧師)


『これからのキリスト教』
 
工藤信夫 著 
  (いのちのことば社、840円=税込)
       
                    
 一読し、筆者の切なる願いと期待に触れて2つのことを思わされた。
 1つは「外から教会、牧会、自分を見ることの大切さ」である。ここで筆者の問題提起の証人となる人々は、苦闘の末、今までいた場所から他の場所に移ったり、外に出て行って、そして教会を神学校を見つめなおしている人々である。
 私たち牧会者は1つの教会、1つの教派・教団、1つの福音派にいてそこから外に出る機会はほとんどない。以前、ある知人の牧師に、年に2度自分自身を他の職業の方に診断してもらっていると聞いて驚かされたことがあった。
 この本に出てくる的確な指摘が、私たちの側に立つ労苦した現在福音派の指導者である同労者たちによって語られるならば、私たちは「アーメン」と大いにうなずくであろう。しかし、副題の「一精神科医の視点」にこそ大きな意味があると思う。
 もう一つは、「教会は、牧師は、クリスチャンはこうあらねばならない」という固定観念の恐ろしさである。第7章「神の深み」に離婚された牧師の体験談が記されて後に、筆者はこうコメントする。
 「つまり私たちには、離婚に限らず何かつらいひび割れ、傷つきを介さないと、どうしても乗り越えられない頑なさ、愚かさが厳然としてあるのではないだろうか。そしてそれらを通してようやく、人間の現実、そして神の現実にたどりつくことがあるのではないかということである。もしそうであれば、神の御光の前に、人間の闇もまた光と同様に尊いものなのではないだろうか」
 最近観た、17世紀のフランスの画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの光と闇の対比からなる美しい色彩の作品を思い出した。闇の中にある温かさが心に残ったことを覚えている。
 なぜ私たちは光を強調し、闇を覆ってしまうのか。破れ、傷つきの中から生まれるものを大切にしたい。筆者の常に苦悶しながらも私たちに投げかけられた諸問題を、真摯に受けとめる中からそれぞれの気づきが始まり、希望の光が見えてくる。

(評・森 直樹=日本福音キリスト教会連合厚木緑ヶ丘キリスト教会牧師)


『若者は朝露のように』
 
ユージン・H・ピーターソン 著 
  (いのちのことば社、1365=税込)
       
                    
 「若者は朝露のように」という題から、読む前は文学的な内容かと想像していたが、牧会配慮の行き届いた聖書的な内容の深い信仰書であった。著者自身が思春期の子どもと向き合ってきた経験が全編を覆っていて、思春期の子どもに対する深い洞察と愛情が感じられ、読むものに説得力をもって迫ってくる。
 思春期・青年期の子どもを現在育てている親にも、少し前に思春期の子どもを育てそのころのことを振り返る余裕のできた親や、教会学校や中学・高校で若者と日々接している教員にとっても「そうなんだ、そのように若者を理解し、心落ちついて対応すればよいのだ」と共感できるところが各所にある。若者を真近に忍耐と愛情をもって見つめ続けてきた牧会者、父親である著者のみができる実践的で聖書的な示唆に富んでいる。
 評者自身も3人の子どもを育て、勤務している短期大学で青年心理学を担当していることから、思春期・青年期の若者が発達上どのような課題を抱え、何に迷いと困惑を覚え、何に憧れ、親にとってどのような存在であるのかについて長く問題意識をもって過ごしてきたので、その洞察には非常に教えられた。
 思春期・青年期の若者が引きこもり、ニート、フリーターなどの状況―心理的離乳期また疾風怒濤の時期―をもがきながらも一生懸命生きようとし、「キリストの満ち満ちた姿」に近づく成熟へと向かうことができるためには、親をはじめ周りの関係者がこの時期を著者が繰り返し述べている「神の贈り物」と受け取り、愛情と深い配慮をもって接することが最も重要であると教えられた。思春期の子どもの対応の仕方に自信を失いそうになっている中年期を迎えた親も共感しながら丁寧に読むと、心の深いところで慰められ、そして霊的な力をいただけると確信する。
 若者は朝露のように…「朝露は…雨のように明確なものではない。日が昇るにつれて土や空気の中に吸収されてしまう。朝露を頼りに生きていくことはできない」。詩的で味わい深いことばである。  

(評・柏木道子=大阪キリスト教短期大学学長)


『教会の一致と一体性−−福音派と公同の教会』
 
JEA神学委員会 編 
  (日本福音同盟、700円=税込)
       
                    
 4つの論文からなるこのパンフレットは、福音派諸教会が、教会の一致と協力に向けてどのような展望をもつことができるかを探る、神学的な試みである。
 プロテスタントの教派性を、いちがいに弊害と決めつけることはできない。他方、諸教派が自分の殻に閉じこもったまま、対話と協力から遠ざかっている現状を是認することは、明らかに教会の公同性への信頼を損なう事態である。「聖ナル公同ノ教会ヲ信ズ」という告白への怠慢と言わねばならない。
 日本福音同盟(JEA)に結集する諸教会は、互いの起源や歴史的伝統の相違を認めつつ、それぞれが普遍的・公同的教会の〈枝=部分〉であるとの認識のもとに、種々の交流と協力を達成してきた。しかし、教会の一致と公同性の追求という課題に照らして、今までの歩みが決して十分なものではなかった、という現状理解が、このような論集を生み出した背景にあると思われる。
 同盟の「規約前文」は、「教会・教団・教派等のそれぞれの内部での一致と協力は、教会・教団・教派等相互間の一致と協力に拡大されなければならない」と述べている。本書は、この理念に近づくための、神学的な道しるべである。
 4つの文章は、教会の公同性という主題をめぐって、大きな弧を描くように、互いに連携している。
 まず聖書神学の分野から、教会一致の聖書的な基礎付けが語られる。次に、教会論の視野から、画一性と分裂という両極をのりこえる道が探られる。更に、一致を可能にする認識論の枠組みが語られ、自らの確信を「相対的に語る」ことによる「対話」の可能性が示唆される。最後に、対話を可能にする精神としての「寛容」の問題が、これも神学的に明らかにされる。
 この論集の構成自体が、ひとつの公同的な神学の実りである。執筆者の方々の真摯な努力は、JEAに属さない諸教会にとっても、一致と協力への新たな招きである。  

(評・小野静雄=日本キリスト改革派多治見教会牧師)


『神学のよろこび』
 
アリスター・マクグラス 著 
  (キリスト新聞社、2940円=税込)
       
                    
 本書は著者のキリスト教入門書3部作(『キリスト教神学入門』〔邦訳済み〕、『キリスト教資料集』〔近日刊行予定〕)の1つで、神学を学ぶ最初の手引きとして書いたもの。キリスト教神学の諸教理を主題別に分け、それぞれの背景にある歴史上の主な神学議論をコンパクトにまとめている。キリスト教会史に登場した神学者たちの言葉や教会が受け継いできた諸信条を引用しながら、教理の意味を分かりやすく説いている。
 その中には、読者に馴染み深いアウグスティヌスやカルヴァンだけでなく、カトリック神学者のトマス・アクィナス、プロテスタントの現代神学者バルト、ブルンナー、ブルトマン、パネンベルグ、更にロバート・ジェンソンまで含んでいる。そして彼らがキリスト教神学においてどのように貢献したかを公平に論述している。
 著者は以前、『キリスト教の将来と福音主義』(いのちのことば社)で、私たち(福音主義陣営)の過去の遺産に対する無知の危険性を説いた。彼は本書で過去の遺産(教会史とその背景にある神学の変遷)をこのように公正にとらえるようにと手本を見せているように思える。また、神学の深みを読者に感じ取らせながら、神学することの意味と喜びを伝えようとしているのである。各章の終わりにその主題に関する質問を設けている。それらは単に復習のためだけでなく、更なる学びへの意欲を高めようとする意図があるように思える。
 訳者は現在の神学界における著者の役割やその位置を、次のように表現し高く評価している。「(マクグラスは)福音主義を擁護しつつ、その狭さの中に没入せず、視野を広げて、二〇〇〇年のキリスト教の伝統をバランスよく吸収し、積極的に理性を用いて現代思想や自然科学と対話しつつ、弁証に努めている」と。彼のこのような真摯な姿勢こそが今の私たちの教会に必要であると思う。翻訳は実に丁寧かつ的確なので、すらすらと読み進めることができる。
  神学の初心者だけでなく、すでに学び続けている方々も深く味わうことのできる1冊である。

(評・具志堅聖=日本福音同盟総主事)


『キリスト教音楽の歴史
     −−初代教会からJ・S・バッハまで』
 
金澤 正剛 著 
  (日本キリスト教団出版局、5200円=税込)
       
                    
 現在の日本の音楽学のリーダーの1人であり、またキリスト者でもある金澤氏のこの著作は、おもに中世からバロック時代にかけての教会音楽作品とその作曲家を取り扱っている。本書は、最新の音楽学の研究成果を踏まえつつひと言ひと言が注意深く記されており、注を伴わない一般向けの概説書であるにもかかわらず、学術的に信頼性の高い1冊となっている。また、教会史・文化史的な背景に関する記述も要を得ており、その枠組みの中で、個々の作品と作曲家についてスケッチがなされ、それらが累積して一つの書物となっている。
 「あとがき」にもあるように、本文はCD50枚からなる「CDで聴くキリスト教音楽の歴史」の副読本として既に出版されており、そこに最低限の加筆・修正が加えられた形で本書が生まれた。もともとのCD企画は高額であり、個人での所有は稀であろうが、図書館等でCDを聴きながら学ぶと、学習効果はアップするし、また書物自体も読みやすくなる。
 この書物のおもな読者は、ある程度クラシック音楽とりわけバッハ以前の音楽にも興味をもつ音楽愛好家、あるいは一度音大で音楽史を学び、さらに教会音楽史という観点からもう一度音楽史をあらい直したい、そういった学徒であろう。従来の教会音楽史の書物(例えば辻荘一氏のもの)よりは、音楽の内容や文化的背景に関する記述は詳細である。しかし一般の音楽史の大部の教科書(例えばグラウトのもの)と比較すると、楽譜、注、参考文献が欠落している点が目に付く。専門書か入門書か、キリスト教書か音楽学書か、そういった読者の設定において、ある意味では迷いがあり、ある意味では配慮もある、工夫の凝らされた1冊とも言えよう。
 日本の教会の現場とはなお距離のある1冊であろうが、しかしこの書物が、読者の信仰の有無にかかわらず、わが国におけるキリスト教文化の涵養に資することを期待するものである。  

(評・井上 義=日本同盟基督教団等々力教会牧師、キリスト教礼拝音楽学会事務局)


『ジャン・カルヴァン−−ある運命』
 
森井 眞 著 
  (教文館、3465円=税込)
       
                    
 本書は、老碩学によるユニークな優れたカルヴァン伝である。「人文主義者」による「人文主義者カルヴァン」の伝記と言うべきか。著者は若き日に「神の栄光を強調するあまり不自然なまでに人間を貶めるカルヴァン、とくに予定説の強弁などには、激しい怒りさえ覚えた」と言うが(あとがき)、その怒りは本書に至るまで一貫して流れているように思われる。カルヴァンの論敵であったセルヴェや特にカステリヨンの思想の解説に多くのページが割かれているのも、そのためであろう。
 著者はカルヴァンを理解し描くのに、カルヴァンの書簡に着目し、膨大な数に上る彼の書簡すべて(印刷された、入手しうる限りの)に目を通したと言う。手紙の中のカルヴァンは実に生き生きとしていて、彼の人間性を描こうとする著者の意図は十分に果たされている。もっとも、「資料に縛られて書いた」と言う割には随所に著者の推測、信念、希望、思想が述べられていて、「人文主義者、森井眞」氏を知るよすがともなっている。
 本書に引かれている多くの手紙の中で評者にとって最も興味深かったのは、学生時代からの親友ルイ・デュ・ティイエが黙ってジュネーヴを去り、カトリック司祭に戻ってからの、彼とカルヴァンの間の往復書簡である。この第14章だけでなくほぼ全章がカルヴァンを、ジュネーヴ、フランス、ヨーロッパという地理、古代、中世、宗教改革という時代、の大きなコンテキストの中で論じていて、評者は改めて歴史の重要性に目を開かれるとともに、宗教改革者カルヴァンを新たに知る興奮と喜びを味わうことができた。
 とは言え、本書は多くの読者にとって必ずしも易しい書物ではない。16、17世紀のヨーロッパ史、宗教改革史はもとより、日本語、特に漢字について相当の予備知識が求められる。そのため評者も、自前のカルヴァン年譜、神学辞典、国語辞典、漢和辞典を幾度となく繰らざるをえなかったが、受けた報いも大きい。その意味で本書は、「人文主義者」になるための入門書とも言える。

(評・松谷好明=日本基督教団館林教会牧師、聖学院大学総合研究所助教授)


『祈る人びと』
 
藤本 満 著 
  (いのちのことば社、2310円=税込)
       
                    
 著者は今、日本を代表するウェスレー研究者の1人です。複数の神学校、大学の教師ですが、何よりも牧師・伝道者として活躍しています。「あとがき」で著者は「私は幸せな牧師だと思う。良い聴衆に恵まれて説教ができる―これほど説教者を励まし、育ててくれるものはない」と述べています。
 自著『ウェスレーの神学』(福音文書刊行会)の中で著者は、ウェスレー神学の基本姿勢について次のように記しています。「ウェスレーの書斎は、人々を前にした説教壇と直結していたと言っていい。彼は専門用語を避けて、難解な概念を民衆が理解できるようなカテゴリーへと創造的に単純化していく才能を持った人物であった」と。「飾り気のない真理を飾り気のない人々に」がウェスレーの神学のモットーでしたが、こうした彼の基本姿勢が著者の姿勢でもあり、インマヌエル高津キリスト教会の講壇で実証されています。
 また著者が良き家庭、教会、先輩に恵まれたことの証しが満ちています。そうした主にある交わりの豊かさが感動的に伝わってきますが、その信仰と祝福は機械的に受け継がれたものではなく、「情熱と忍耐の祈り」によって引き継がれるものです。様々な試練を通し、祈りの中で育てられた著者が、共に祈りに成長したいと願って語った、洞察と深い慰めと力強い励ましに満ちた説教集です。
 聖書の解き明かしの豊かさはもちろんのこと、例話の用い方に、優れたセンスがうかがえますが、特に評価するのは、その適切さと正確さ、さらに一歩進んだ興味深さです。多めですが、とってつけただけの例話ではなく、テキストをより深く、より身近に聴衆に伝えるために必要な例話を、著者は慎重に用いています。例話は、よく祈り、広く深く学び、様々な課題を素通りすることなく現代を生きる説教者への、神の贈り物だと思います。
 終わりに、説教者が目標とすべき説教集が出版されたことを感謝し、礼拝堂への扉をモチーフにしたすてきな装丁の本書を心からお勧めいたします。

(評・古川修二=城陽ナザレン教会牧師)


『ピューリタン牧師バクスター』
 
梅津 順一 著 
  (教文館、2730円=税込)
       
                    
 17世紀、英国におけるピューリタニズムのすぐれた指導者の1人リチャード・バクスター(1615〜91年)の生涯と、教会改革および社会改革に大きな影響を与えた彼の思想を紹介する好書である。
 近年、ピューリタニズムの牧会的神学への関心が再評価されつつあるが、バクスターの牧会の働きと著作はその頂点の1つとして高く評価されている。だが、日本語に翻訳されている著作は限られており、一般読者にはなじみの薄い存在ではないだろうか。本書では「牧会者リチャード・バクスター」と「バクスターの著作(抄)」の2部構成で、その生涯と教会および社会の改革に及ぼした影響を概観できる。特に第1部の前半には、彼の生涯を追いながらピューリタン変遷の特徴的な出来事との関係、バクスターの牧会者の生活観が簡潔平易に書き下ろされている。後半の「リチャード・バクスターの牧会と説教」は説教塾でなされた講演内容の収録だが、バクスターの牧会の働きのまとめとして貴重な助けとなる。
 聖書に基づいた神学への信頼と牧会的な適用を並列的に重んじるところに、ピューリタン運動の重要な特徴がある。バクスターがその神学的見識と牧会経験から著した「キリスト教指針」、主著とも評される「改革された牧師」などが抄訳とはいえ第2部に収録されていることは、ピューリタンの牧会の華を垣間見ることができる。
 バクスターの牧会姿勢と著作は、アメリカ新大陸へ渡ったピューリタンたちと、その後ジョナサン・エドワーズやマックス・ウェーバーらにも大きな影響を与えた。その結実はクリスチャンに限らず「よい生活への指針」あるいは規範として社会生活を改革してきた源泉でもあった。だが、世俗化と価値観の多様性のうねりの中で、今日そのような「よい生活への指針」はドグマ視されるか、あるいは見失われているかのようだ。バクスターが実践し影響を与えた教会改革と社会形成は、現代の日本のプロテスタント教会に「生活指針」再構築へとチャレンジを与える礎石ともいえよう。まず、本書を手がかりに熟読味読したい。



『日本と西洋キリスト教』
 
ロバート・リー 著 
  (東京ミッション研究所、2940円=税込)
       
                    
 原著タイトル『文明の衝突』( The Clash of Civilizations)は、サミュエル・ハンチントンの『文明の衝突』と同じタイトルである。ハンチントンの『文明の衝突』がヨーロッパ文明、特にアメリカ国益の追求という視点から書かれているのに対し、リー博士の本書は、文字通り世界歴史の中での日本文明とその宣教課題という視点から書かれている。
 今日でも世界の歴史を見る視点として、トインビー史観とカール・ヤスパースの歴史観が大きな影響を与えている。ハンチントンの歴史観がトインビー的であるのに対し、リー博士の歴史観はヤスパース的である。
 すべての文明は紀元前6世紀ごろ、中国・インド・ギリシャ・イスラエルを中心に「人間とは何か」という問いが同時に発せられ、今日まで「枢軸時代」の根元的問いとして継承されている。
 このような問いからすれば、キリスト教の特権的存在としてのヨーロッパ―アメリカ文明という視点は相対化される。
 本書第1章の「古代エルサレムから近代の東京へ」というタイトルは、このことを指している。第2章「不可避的な宣教学的課題」、第3章「日本の文化と社会におけるアイデンティティーと回心」、第4章「真の宗教とは」もこのような普遍史の中で救済史の意味、「キリストの独自性」が問われている。
 本書のもう一つの特徴は、デイヴィッド・ボッシュ(David J.Bosch)のTrans- forming Mission(『宣教のパラダイム転換』東京ミッション研究所)で問題とされた近代啓蒙主義を突き抜ける視点、「ポスト・モダン」の宣教課題が日本という現場で問われているという点である。ボッシュの著書がどこまでも西欧キリスト教の立場で書かれているのに対し、リー博士の本書は、東京ミッション研究所所長としての重責を果たしながら、日本とアジアの視点で展開された宣教理論である。
 本書は、これからの日本宣教の教科書としての位置を占める著書である。

 (評・東條隆進=日本キリスト兄弟団弥生台キリスト教会牧師)


『天国で君に逢えたら』
 
飯島 夏樹 著 
  (新潮社、1260円=税込)
       
                    
 飯島夏樹。今、この名前をインターネットで検索すると何件ヒットすることか。飯島さんは2月28日、この世での旅路を終えた。38歳だった。8年連続でワールドカップに出場し、数々の大会で優勝した元プロウィンドサーファー。素敵な家族、事業は成功し、まさに順風満帆、波に乗っていた。世界中のサーファー、あこがれの存在。
 02年6月、肝細胞がんと宣告されてから飯島さんの人生は一変する。大手術、うつ病、パニック、余命宣告…。家族と友人たちは飯島さんを励まし、支え続けた。文章を書くことに生きがいを見いだし、昨年7月に出版したのが、小説『天国で君に逢えたら』だ。すでに20万部を突破した。
 がんセンターの片隅で、患者たちの手紙代筆業「手紙屋Heaven」を開いた若き精神科医、野々上純一と、純一を取り巻く人間模様を、がんに侵された飯島さんがあたたかい目線で描く。患者たちの心の奥にある叫びやうめきを聞き、それを手紙のかたちに整えていく。その声にはやはり飯島さんしか書けない真実味がある。
 小説とともに著者に注目が集まるのは、テレビ番組でその生き様が紹介されたからだ。妻、寛子さんと4人の子どもたち、家族の支えと信頼をカメラが追った。しかし、カメラからその多くを省かれた信仰の世界が飯島さん一家を包んでいる。昨年8月、一家はハワイに移り住んだ。以来、現地のマキキ聖城キリスト教会(黒田朔牧師)に通うようになる。
 黒田牧師は、飯島さんとの交流を振り返ってこう語る。「がんを抱えながら生きた飯島さんを通して気づかされたことは、命をひたすら大事にすることでがんに打ち勝つのではなく、自分の『天職』を知ってそれに生きるとき、人は生かされるということでした。飯島さんはがんで死んだのではなく、主に応えて最後まで生きた人だと思いました」

 【藤川 義】


『ニーバーとその時代』
 
チャールズ・C・ブラウン 著 
  (聖学院大学出版会、6300円=税込)
       
                    
 20世紀アメリカを代表する神学者、社会倫理学者であるラインホールド・ニーバーの伝記である。ニーバーが生きた時代状況と関連させ、彼の著作、論文、様々な社会的発言に焦点を当てて彼の知的生活を叙述しており、彼の思想の入門書にもなっている。
 本書は、ニーバーの思想の基本構造と特徴を明らかにしている。ニーバーは、聖書に記されている倫理的規範の理想主義と罪に満ちた社会を見据えた現実主義の統一、西洋の遺産としてのヘブライズム的源泉とギリシャ的源泉の統一を模索した。特に印象を受けることは、抽象的、観念的レベルを突き抜けた思想の具体性である。キリスト教的人間観、特に罪の現象学を通し、現実の人間の姿が説得的に叙述されている。歴史観を通し、社会と時代についての具体的で深い思索も展開されている。
 ニーバーの預言者的役割は、キリスト教会の社会的責任について実際的指針を示したことであろう。著作が訴えたかったことは、ニーバーが果たそうとした使命を我々の世代が継承すべきでありながら、実際には彼の教訓はあまり生かされていないということかもしれない。本書の最終章でニーバーの遺産について述べられているが、その始めの個所に記されているニーバーの限界についての言及が注意をひく。ニーバーが直面した世界と今の世界では全く様相が異なっているので、彼の社会的提言はそのまま今の世界には適用できないという指摘がなされているのである。
 しかし、ニーバーの限界は時代状況によるのでなく、神学的方法論の不明瞭さに基づくものではないかと思われる。ニーバーは、あらゆる事柄について具体的に語っているのであるから、我々は聖書の光に照らして、教会の社会的責任、愛と正義の弁証法、キリスト教的理想主義と現実主義等の問題に関して、彼の思想内容の妥当性を検討することは十分意義のあることである。
 世界の光、地の塩として我々は何をすべきかということについて真剣に考えている信仰者にとっては、本書は推奨に値する1冊である。

 (評・多井一雄=武蔵工業大学教授/倫理学)


『日本の教会と「魂への配慮」』
 
加藤常昭ほか 著 
  (日本キリスト教団出版局、 2730円=税込)
       
                    
 クリスティアン・メラー編『魂への配慮の歴史』全12巻が、加藤常昭先生の翻訳により昨夏完結した。このような大著を訳し抜かれた先生への畏敬と感謝の念を、一層深くする者のひとりである。
 この全12巻を巡ってなされた4者の対談記録が単行本となったのが、本書である。
 対談者は加藤常昭師を中心に、井ノ川勝牧師、賀来周一カウンセリングセンター長、山岡三治イエズス会司祭というバラエティーに富んだ興味深い顔ぶれであり、それぞれが「魂への配慮」に深くかかわりをもつ職務にある人々である。
 評者は牧師であり、その点では同じ職務に携わる井ノ川牧師の発言に同意共感を覚えつつ、読み進むところが多かった。今の日本の教会に生きるひとりの牧師として、伝道牧会現場を踏まえて語られる率直な意見や感想や提言にうなずき、教えられるところ多く読ませていただいた。
 たとえば、バルダーマンが詩篇を生徒に教え込もうとするのでなく、生徒と共に詩篇の言葉をなぞっていった時に、それが深く理解され共感を呼び覚ます言葉となっていったこと(第1巻)についてのコメント。デルプの言葉「パンは大切である。自由はもっと大切である。だが、最も大切なのは、誠実を尽くして神を拝み続け、これを裏切らないことである」(第11巻)に触れながら、自らが伝道牧会に携わっている伊勢神宮のある町で生きることに重ね合わせておられる姿、など。
 本書を読んで思うことは、『魂の配慮の歴史』12巻についての実に優れた手引き書であるということである。
 訳者として内容に通じておられる加藤師の手引きに加え、このテーマについての各分野の専門家の適切なコメントがあふれているからである。
 本書と全12巻の間を行ったり来たりしながら、興味や関心や必要に応じて読み進めていくならば、理解は格段に深まり豊かになり、確かなものとなるにちがいない。

 (評・藤原導夫=日本バプテスト教会連合市川北バプテスト教会牧師)


『み国のわかちあい』
 
グスタボ・グティエレス著 
  (日本キリスト教団出版局、2940円=税込)
       
                    
 著者は『解放の神学』(1971年)で知られるペルーのカトリック神学者。1950〜60年代、南米の社会的正義を求めるうねりに教会が真実を認め、「貧しい人々」にとっての不義・抑圧の原因は「北」主導の構造とそれに依存する南米諸国の経済の仕組みにあるとし、聖書的解放の使信と社会学的分析を方法論に、平和と正義の実現を求めたのが「解放の神学」だ。
 本書は教会暦的に配分された主日のテキスト(通例、旧約聖書、使徒書、福音書の3つ)の黙想集で、各項目は表題、教会暦主日名、テキストをまず掲げ、後続の黙想を2つに分け、テーマ的な短文を直前に置いている。黙想の前半はテキストの展開、後半は適用という印象である。
 黙想は「解放の神学」の色彩が濃い。四旬節第四主日の項、ヨハネ9・1〜41では「私たちラテン・アメリカ住民の大半が経験している非人間的な状況は神からの罰として正当化されることはない。神はこの状況を拒否しておられる。イエスはこのように狭く打算的な解釈から私たちを解放するためにいのちと愛の神を私たちに啓示する」(46ページ)とある。植民地時代から今日まで収奪の対象とされてきた「貧しい人々」(54、140ページ)の解放に仕えようとする教会から生まれたものである。
 このような状況では、祈りと行動が一つとなり(91ページ)、行為で福音を証言することが求められる(24ページ)。そのような愛は危険を伴い(151ページ)、平和と正義をもたらす宣教は「たやすい仕事ではない」(104ページ)。南米の現実の中で主イエスに従うのは厳しい「道行き」である。この黙想集を貫くのは「母のように愛する神への信頼」(95ページ)、その神を「信じる信仰に強められて」(100ページ)歩むという姿勢だ。
 本書は南米の現実からは遠いこの日本で、主イエスに従い福音を宣教することの意味を深く問う。神父の黙想の内容は一応「平穏」とされる日本の教会とも無縁でない(カトリック的な愛のわざの強調にある神学的背景を承知しつつも)状況の中で聖書がどう読まれるかも知ることができる。

 (評・橋本昭夫=神戸ルーテル神学校校長)


『牧師による診断』
 
ポール・プルイザー著 
  (すぐ書房、2100円=税込)
       
                    
 評者は心理臨床を仕事としているが、その中で牧師が世俗の心理相談を活用する際に、2つのスタイルがあると感じている。
 一つは、積極的に心理相談を活用し、紹介した時点で紹介先の専門家に任せきりになる場合。もう一つは、世俗の専門家やその背後にある体系や技法に不信を抱き、牧師が抱え込む場合である。
 どちらも人の援助の在り方を一軸で考える危うさがある。深刻な精神障がいを有する人にも、医療だけでなく牧師の宗教的助言が必要であるし、信仰上の悩みをもつ人にも心理的な助言が役に立つことがあるからである。
 さて、本書『牧師による診断』は、牧師ではなく、牧師と協働する米国の心理カウンセラーが、臨床心理学の知識と自らの神学的直観を土台に書いたものである。
 本書で著者は、牧師は牧師として、カウンセラーはカウンセラーとして、自分の専門性を自覚しながら協働すべきことを説いている。
 書名の「牧師による診断」というのも、牧師が牧会の中で信徒や求道者の相談にあずかるとき、精神医学や心理学の概念を借用するのでなく、神学の専門援助者として独自の見立てを行う必要性を強調したものである。それは素朴ではあっても良いが、必要なものであり、十分な見立てがないと、信徒の個人差にあわせた霊的な育成の計画がもてなくなるというのである。
 そして著者なりに牧師が相談に訪れる人を診断するためのものとして、「聖なるものの自覚」「摂理」「悔い改め」「交わり」「召命観」など、7つの指標を提示している。
 ところで、日本のキリスト教界にもカウンセリングを活用しようとする機運が見られるようになった。一方で、信仰をもった若い臨床心理士が日本のそこここに誕生し始めている。
 本書は1970年代の米国で書かれたものであるが、ようやくその主張が現実的な意味で参考になる時代が、日本にも訪れようとしているのである。

 (評・藤掛 明=聖学院総合研究所カウンセリング研究センター専任講師)


『人間、このかけがえのないもの』
 
チェル・ノールストッケ著 
  (いのちのことば社、1260円=税込)
       
                    
 小さく軽く地味な本です。しかし、大きく重く深い本です。
 「ディアコニア・奉仕」ということばが用いられても、その意味が多様なために日本の教会では定着しにくいのが実情です。
 本書は、「ディアコニア」の基本的なわくぐみを聖書から解明し、著者が所属するノルウエー国教会のディアコニア活動の課題と取り組んでいます。
 日本の読者は、最後の「展望」および「霊性」から読み始めるほうが理解しやすいかもしれません。
 「ディアコニアは、神のかえりみを証しする教会の力となることができる。恵み、愛、あわれみ、義−−これらの重い神学用語も、神が私たち人間の幸いを求めておられるという一語に尽きる。神は、友であることを求められる−−ご自身と私たちが友となり、私たちも互いに友となることを。そのためにこそ神は和解の務め−−和解のディアコニアを、教会にお与えになったのである」(136ページ)
 本書の大きさは、歴史と世界の困窮をディアコニアという角度から「預言者的」に展開させるところにあります。
 重さは、多様な価値観のうずまく世界で教会はなお隣人を愛することができるか、できるとすればどのように…という問いかけにあります。  そして深さは、著者の「ディアコニアの最良のテキストはルターの『キリスト者の自由』である」とする堅固な姿勢であり、同時に教会からはうとんじられてきた神秘家たちの思想と生活への著者の開かれた態度からくる自由さです。
 著者はディアコニア(奉仕)の原点は「ひとりひとりが神に創造されたかけがえのない存在」だとし、その中心は「訪ねることともてなすこと」としています。
 この点で日本の教会は小規模である利点を生かして、「神のかえりみのわざ・ディアコニア」を素朴に、この中心点から始め広げることができるのではないでしょうか。

 (評・勝原忠明=西日本福音ルーテル教会鳥取福音ルーテル教会牧師)


『「もう一つの世界」からのささやき』
 
フィリップ・ヤンシー 著 / 山下 章子 訳 
  (いのちのことば社、2100円=税込)
       
                    
   この本を書いたきっかけが、キリスト教信仰を説明するためだったと述べるヤンシーは、ハイテク時代のまっただ中に目に見えない世界が存在することを伝えようとしている。  しかし、本書は単なる伝道用の書ではない。キリスト者がこの世界の中でどのような信仰をもって生きるのかという、キリスト教信仰にとって本質的な問いかけに真っ正面から取り組み、読者を信仰の深みに導こうとしているのだ。  私たちクリスチャンの多くは、「人生を、自然的と超自然的、あるいは霊的と霊的でないものと分ける」ような信仰理解をしている。そこから、神の造られた美しい世界や人間らしい願いさえも抑圧する禁欲的な律法主義が生まれた。それと同時に、実生活は世俗化されるままになっていったとヤンシーは指摘する。彼はそのことから「方向転換し、両者を組み合わせる方法、神が意図された一致をもたらす方法を探すことに注意を向けるようになった」と言う。  そして、本書の前半はその「一致」、もしくは日々の生活を「神聖視」するにはどうしたらよいかというところに焦点が当てられている。「ホームレスの人たち…もまた神の神聖な輝きであることに」気づき、「日々の仕事を召命として受けとめ」、「子どもが汚したものの後始末…顧客の苦情処理…こうしたことが重要であり、召命につながっていると信じる」道を示す。  では、そのような歩みを妨げているものは何か。本書の後半でヤンシーは、その原因としての私たちの罪を鋭く指摘し、そこを神の愛で包み、真の献身へと導く。そして最後には、始めに示した「一致」のテーマに戻り、この地上で神と一つとなって生きる幸いを訴えて終わる。  古今の非凡、平凡なクリスチャンの生き方や書物を縦横無尽に使って読者の心に迫る本書は、人生を変え得る一書だと思う。もっと幸いな生き方があるはずだと、道を求めているすべてのクリスチャンにお勧めしたい。

 (評・島先克臣=元フィリピン宣教師)


『教会からクリスチャンホームの子がいなくなる』
 
J・マクドウェル/B・ホステトラー 共著 
  (CS成長センター、1575円=税込)
       
                    
  「教会からクリスチャンホームの子がいなくなる」の本は、単に著者の主張だけが書かれているわけではない。1994年にアメリカとカナダの福音主義の諸教派の教会で行われた大規模な調査結果の分析に基づいて、客観的にまとめられている。無作為に選ばれた3700人以上の中高生の回答をまとめると、84%の子どもたちが少なくても週に1度は教会学校とユースグループに出席しているにもかかわらず、55%の子どもたちが18歳になるまでにペッティングとセックスをしたことがある、と答えている。これは驚くべき事実である。クリスチャンホームのモラルが崩壊している中、親は何をなすべきか、と本書は鋭い問いをつきつけている。  本書の特徴の第一は、「愛とセックスに関する調査分析」「結婚と家族に関する調査分析」「信仰と宗教に関する調査分析」「人生観とライフスタイルに関する調査分析」とクリスチャンホームの中高生の人生観を総合的に分析しようと試みていることである。性のことだけを問題視しているわけではなく、総合的な評価に対する信頼度は高い。 第二の特徴は、ルネサンス、啓蒙運動、産業革命、ダーウィニズム、相対主義など社会の価値観の変化と家族への影響をきちんと分析していることである。著者は特にマスメディアの影響の強大化、社会の都市化に伴う家族のつながりの消失、経済的繁栄に伴う物質主義の台頭、子弟教育の責任の放棄を問題として指摘しており、説得力がある。 また、三番目の特徴は、「性」「正直」「結婚・家庭」「愛」「正義」「あわれみ」「尊敬」「自制」について、家庭で子どもたちをどのように教えたらよいか、という具体的な実例が紹介されている点である。絶対的な真理を子どもに教えるための方策は、絶対的とはいえないのではないか、という疑問は残るが、良い解決のヒントを与えてくれる。クリスチャンホームの価値観の世俗化に警鐘をならし、親の責任について深く考えさせてくれる必見の書である。

 (評・杉本玲子=新生連合・町田クリスチャンセンター教育主事)


『ティンデル聖書注解「ヨハネの黙示録」』
 
レオン・モリス 著  岡山 英雄 訳
  (いのちのことば社、2940円=税込)
       
                    
    本書は、ティンデル聖書注解シリーズ、レオン・モリス著『ヨハネの黙示録』の邦訳である。原書を執筆担当されたレオン・モリスはオーストラリアの福音派の新約学者で、ティンデル聖書注解の新約部門の監修者でもある。新約聖書各書の注解を多数手がけており、堅実な注解で定評がある。難解な黙示録もレオン・モリスの案内で平易に解き明かされている。緒論部分も簡潔で、しかも適切である。「過去主義」的解釈、「歴史主義」的解釈、「未来主義」的解釈、「理想主義」的解釈と、おもな見解が手短に紹介されている。その上で、「力の神学」として黙示録が解釈されている。   参考文献などに古さを禁じ得ないが、注解そのものは評者が慎重過ぎると感じるほど信頼の置けるものである。日本の福音派の誇る黙示録、そして終末論の権威とも言うべき岡山英雄氏が、的確な注解を実に読みやすい日本語に翻訳して下さり、多くの読者は感謝に絶えないことと思う。
 翻訳者泣かせの固有名詞の日本語表記には、もう一工夫期待したかった。評者が目を通した限りでは一貫性に欠けているように思われた。注解者たちの名前ぐらいは全個所でアルファベットと併記すると、読者により親切であったのではないか。また、ギリシャ語の単語がローマ字表記されているが、ギリシャ語アルファベットとの対応表は本書には見あたらない。ギリシャ語アルファベットとの対応を明確にした上で、片仮名表記を採用するのも妥当な方策であったかもしれない。
 手ごろな内容の注解で、しかも一般信徒が安心して使用できる注解書が邦訳されたことは喜ばしいが、もう少し値段を引き下げる努力が必要だと思うのは評者1人だけであろうか。ところで、原書の出版年は一体いつなのであろうか。Copyright表示には1969年とある。「訳者あとがき」で初版は1967年と記されている。原書第二版への序文で著者が新たに参考にした注解書の出版年は1970年代である。

 (評・伊藤明生=東京基督教大学教授)


「リバイバル」
 
D.M.ロイドジョンズ 著 武藤 敬子 訳
  (いのちのことば社、2100円=税込)
       
                    
   ロイドジョンズ博士の1959年になされた連続主題説教の翻訳である。日本のキリスト教会やキリスト者によって、この「リバイバル」という言葉の与えるイメージはかなり異なる。その人の知識や経験から、何の抵抗もなく積極的な印象をもって受け止める人々から、反対に嫌悪感をもって受け止める人々まで幅がある。リバイバルという言葉が与える拒否反応は当時の英国にもあり、著者は、北米のチャールズ・フィニーがその著書で、「あることをしさえすれば、いつもリバイバルを起こすことができると教えて、教会を惑わした」(164ページなど)と言う。また、リバイバルという用語が誤解される理由に、福音伝道キャンペーンがリバイバルをもたらすという考えもあることを指摘する(159ページなど)。 この説教は、ちょうどその1世紀前に北アイルランド、ウェールズ、スコットランド、そしてスウェーデンなどで起こった大リバイバルを意識してなされ(146、273ページ)、それから更にほぼ1世紀前の北米の、ジョナサン・エドワーズや伝道旅行に来たホィットフィールド、ウェスレーらによるリバイバルにも言及される(158ページ)。 したがって著者は、リバイバルは通常のものではなく、「いつものみわざを越えた聖霊の注ぎ」(80ページ)であり、「リバイバルが起こると、神ご自身の栄光を垣間見せてくださるということだと、われわれは見て来た」(354、359、367、369ページ)と述べ、特別であるが、求めるべきことを強調する。  当時の英国の礼拝出席者が人口の5パーセントであるのは、教会が学問と学識、また組織への依存にあるからと言う。そうしたなかで著者は、まず現状を嘆く必要(436、439ページ)、神に戻ってきてくださるよう叫び求めることの必要を語る(435、457ページ)。そのためにも、教理的な説教(86ページ)、教理に基づく祈りがリバイバルに必要であると語る(440ページ)。リバイバル再考を促す書である。一読をお勧めしたい。

(評・鈴木英昭=日本キリスト改革派教会名古屋教会牧師)


「他人は変えられないけれど、自分は変われる!」
 
丸屋 真也 著 (リヨン社、1200円=税別)
       
                    
  本の題名につい心が動き、ページをめくると、はしがきの「人と上手につき合うためのシンプルなコツ」というフレーズが出て来ました。そこで、臨床心理学博士の著者は、自らのカウンセリングの体験から、次のような問題提起をしているのです。
 「気持ちが晴れない、友人関係が長続きしない。職場で孤立してしまう。夫と気持ちがすれ違う…などなど、相談内容は多岐にわたりますが、その根底に共通しているのは、人間関係のトラブルです。直接人間関係にまつわることではなくても、背後にそのこじれが見え隠れする場合がほとんどだといえます。それでは、なぜ私たちはそこまで人間関係について悩んでしまうのでしょうか。…」
 この後に、本書が出た目的みたいな事が紹介されているのですが、一言でいうと、「人間関係のコツは、他人を変えることに躍起になるのでなく、自分自身を変えることにある」ということのようです。
 さて、その内容を紹介しますと、1章=他人の問題を抱える女性たち。2章=自分と他人の見えない「境界線」。3章=人間関係を円滑にする会話術。4章=なぜ、友人関係がうまくいかないのか。5章=なぜ、仕事の人間関係で悩むのか。6章=なぜ、パートナーとすれ違うのか。7章=なぜ、家族の関係が壊れるのか。8章=自分のイメージを高める方法、となっています。
 これだけを見ても、自分の問題として、ぜひ読みたいという項目がいくつもあって魅力的です。評者自身、妻との関係がぎくしゃくしたりした事どもを思い出して、そのアドバイスに目からうろこが落ちるような気がしたものです。ところで、本書は、“女性が人づきあいで悩んだら読む本”という副題があるものですから、男性は関係ないと思ったら、どうして、女性を理解するのに、これほど分かりやすく説き明かしをしている本もめずらしいのです。
 (評・守部喜雅 本紙編集主幹)




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